元気が湧くシンフォニー
幸せな人生を得るには
春川ひろし:著
シンフォニー目次
はじめに
序章
第一章
素敵な仲間
第二章
第三章
第四章
おわりに
第三章
マザコンからの脱出
『常に変化』 「乳離れや親離れ」が出来ていない甘ったれのマザコンのお子チャマのままでは幸せな生涯を過ごす人になる事は不可能ですのでいち早く、その世界から脱却しなければなりません。
これを怠っていますと時が経てば経つ程必ず、多くの病や事故災難に遭遇する機会が増して来る様になっているのです。
ダーウィンの【全ての生き物は唯一、変化出来る者だけが生き残れる】の通り、常に日々変化する心掛けを持つ人が、楽しい人生を勝ち取る絶対的必要条件となるのです。
マンネリ化に陥り、
変化進歩無きに陥っては死に至る
『大変』 「大変」と言う字は「大きく変わる」と書きます。
お子チャマは、己に少しでも不都合な事等に出会いますと、慌てたり、それを避けたり、遠避けたり、愚痴や文句の材料にして己自身を変える努力は一切せず、酷い人は卑怯で卑劣な人の
所為
(
せい
)
にしたりもします。
一方【一人前】の人は如何なるトラブルにも「己を変えて繰れる為の素敵な研磨剤」と言ったプラス思考に置き換え、己を変える努力を惜しまず取り組みます。
仮にそのトラブル対応が極めて難しく途方も無い時間や手間が掛かる場合でも、コツコツ取り組むと、時が必ずそれらを解決すると言う事を熟知していますので、常に己を大きく己を変える努力を惜しまず一生懸命取り組みます。
その大きな困難を乗り切りますと、必ず多くの人々から「実に大変な事をやりましたね」と素敵なお褒めの言葉を貰える人になるのです。
つまり、あらゆる大病や事故災難に遭わず、楽しい人生を勝ち取る人とそうでない人の違いの一つに【常に己を変える努力をする人と、しない人の違い】が有るのです。
お子チャマのままで成人になっては、仮に全ての物事に対しやる気になっても残念ながら【時既に遅し】となり、それに応じられない
憂
(
う
)
き目を見ます。
これは人生で最も大事な成長期に人としてはやらなければならない、乳離れ、親離れをせず「自分に大きな間違いは無い」と、身勝手な自惚れの世界に浸ってやるべき事をやらずで怠ってしまった膨大なツケであり、それによって極めて悲惨で哀れな辛い孤独の世界の人生に陥ってしまうと言う、定めによる結果なのです。
そうならない為に人は常に「己は何を鍛え、何を変えるか」を真摯に考え、日々常に己が変わる努力をし続け、コツコツと実行して行く事が、楽しい日々を勝ち取るポイントになるのです。
実はここがこの冊子の最大のポイントで【人生百年】と言われるこの時代に、話題の年とともにやって来るであろう認知症を始めとする多くの病や災難等と密接な関係があり、その為にもをここをしっかりと認識し、さもしい人生にならない為に常に明るく己を変化する努力を惜しまない人に「変える」方が得策かも、と言った他愛の無いお話なのです。
『主犯者は?』 古今東西、日々繰り返され決して絶える事の無い数多くの凶悪犯罪や事件事故等の主犯者は皆、この間違いだらけの母親の思い込みで仕込まれ、乳離れ親離れが出来ないままマザコンの世界に陥り自己中心で身勝手な半人前のお子チャマ人間の為せる業なのは一目瞭然です。
【子は親の鏡】と言います様に、その子供を無知無能と我儘の限りを尽くし幼少時からとんでも無い犯罪やとんでも無い出来事をしでかす所迄、その子供を追いやってしまったそのバカ母親や家族にも当然、その責任が(少しでも)有るのでは?と思われもしますが、それは「とんでもございません」子供の成長段階には「育児期間」が有り、母親や家族はこの育児と言う素晴らしい【隠れ蓑】のお蔭でその子供が犯した如何なる罪の責任等に関しましては治外法権で一切の責任を負う事は無いのです。
と言う事は、全ての子供は仮に親や家族達から如何なる理不尽で間違いだらけで不適切な育児方法を仕向けられたとしてもそれに対し一切「あ~だのこ~だの」とつべこべ言える資格は無いのです。
それがその人に与えられた天命で有り宿命なのです。
三つ子の魂百までも それ故「一人前の人」になるにはこの己の定めや立場等を、己の努力でいち早く知り、正しく理解し
真摯
(
しんし
)
にそれに立ち向かい、乳離れ親離れをしっかりして己の進むべき道を見つけ出し日々コツコツ己を変える努力をする事が人生最大のテーマで有り人としてやるべき第一歩なのです。
それをしっかり行い、老後に襲って来るあらゆる病や事故災難等にも惑わず対応出来る人になれるかが、その人の人としての評価の全てになるのです。
これが良く言う「健康一番」です。
己の人生とは全て己自身が取り組み解決して行く問題で有り、決して親が「ど~のこ~のとか世の中がど~のこ~のとか、過去や現在の環境がど~のこ~の」と言った屁理屈や弁解や、一切の甘ったれは関係有りません。
そこをしっかりと理解し己のやるべき事を
成遂
(
なしとげ
)
て、人は始めて「一人前」の人になれるのです。
つまり人生とは
誰かが助けてくれると言った、
甘っちょろい
代物
(
しろもの
)
では
有りません
葛藤する気持ち
(甘えからの脱却)
『暴走族』
神戸において暴走族を撮影
出典:
ウィキペディア
身勝手で間違いだらけの親の育児でトラウマ化の如く刻み込まれてしまった、マザコン人間になり自己主張の我儘の限りを尽くし夜間に無謀な暴走行為を繰り返し、人々に多大な迷惑を掛ける少年少女達に多いい暴走族の皆さんにお話を聴きますと色々と教えて貰えます。
皆さん異口同音「俺達は何一つ間違った事はやってはいないよ」「俺達(私達)は人様に迷惑を掛けたくは無いし、迷惑は何一つ掛けてはいないよ」と、実にキラキラ輝く主義主張をハンコで押した様に仰います。
時が経ち、そんな彼等も社会の一員へ、或る者はサラリーマン、OLに、或る者は独立し社長になったりと、皆さん華麗に変身して行きます。
無論ツッパリ人生の醍醐味から抜け出せず、高い塀の中の生活を満喫している者も居りますが、彼等の主義主張は「己の人生は己自身で決める物で有り、誰にも指図されたく無い」と言う極めて立派な主張があり、とても人様に何かをお伺いするとかお願いをすると言った野暮で甘ったれた考え等は
微塵
(
みじん
)
も有りません。
彼等は「俺(私)にはそれは無理とか親や家庭が厳しいからとかなってないからとか、世の中が◯◯だから」と言った、口先だけの屁理屈や愚痴や言い訳や弁解に終始し「あ~だのこ~だの」と頑なに心を閉ざしている間抜けな人生の「糞ったれども」とは違うんだと言った、強い自負心が有る様です。
視界と了見の狭い自己中心の塊の全てのアホな母親の過保護により、完璧に
歪
(
ゆが
)
められて育てられ、大局観的視野の無い視界の狭い自己中心のマザコン人間になり、間違った己の考えから脱却せず頑なに己の主義主張をし続け、悩み多き人生を歩むのもそれはそれで立派な選択肢の一つですが、先ず他人様の力を借りそこから己の間違いを知る努力を惜しまず、日々己を変える努力をしてプラス思考の【仙人様】の心を持つ人になるのもその人の人生、どちらを選ぶかはその人の問題で他人がとやかく言う問題では有りませんが
『頭を下げて』
頭を下げて ここに第一章の【孫子の兵法】の巻頭の先ず敵を知り・・・を実行し、周りの空気や相手を良く観察し己の劣っている所を知り己を鍛え、常に己を変えて行く習慣を身に付けるのが得策では無いかと思われます。
時には「あ~言う輩は俺(私)は苦手」等と言わず暴走族の皆さんに低調に頭を下げお伺いして見るのは如何でしょうか?きっと素晴らしい答を貰えますよ。
何故なら彼等は先ず自分の殻を突き破ると言う、物事の最も大切な己を変える第一歩をしっかりと踏み出しているからです。
これは見方を変えますと己の人生を己の力で【仙人様】にしようと模索葛藤している姿なのかも知れません。
ここに孫子の一説の【敵を知り】や、第一章の論語の一説の「間違いを恐れず、常に他人の力を得て己を改めるのが良い」を積極的に取り入れ実行実践すれば、評価は著しく変わるかも知れません。
始末に悪いのは、何事も現状の己の考えに無知と自惚れで執着し、自己中心で間違いだらけのアホな己の考えに気付かず、何一つ己を変えようとする勇気や努力、根性が全く無い最低最悪な【お子チャマレベルの輩達】で、同じマザコンのお子チャマでも皆さんはここが少々違うのです。
(何事も⇒先ずやる事が先)彼等は己の人生には皆、チャレンジ精神旺盛な前向き姿勢でみなぎり、己を変える為には果敢に飛び出し時にはみ出し、何かを一生懸命模索しているのです。
この様な時期を一般に「反抗期」と言いますが、人の成長過程に於いてこれはこれで立派な意味が有るのです。
間違いだらけの己の考えに固執し、ブツブツ言ってるだけで己を変え様としない、勇気や気力の無い女ったらしの口先ばかりの甘ったれたアホなお子チャマ人間とは比較にならない程、素晴らしい力を持ち合わせている場合もあるのです。
己を変えるには、己の殻を脱ぎ捨て、何よりも人様に問うのが先なのです。
その証拠に反抗期を終え、己の間違いや欠点を見出し人様に問う事の素晴らしさを知り、日々他人に尽くす喜びを知った、元暴走族の多くの皆さんは異口同音、「己の愚かさを知る事が出来、今ではあの日々に感謝一杯です」「多くの人々から優しい助けや温かい力を貰えた事で、他人を大切にする喜びを知る事が出来、只々感謝で全てに有り難うです」と言う人も結構多くいます。
『喰いもの』 無知無能で視界の狭い自己中心の塊の全ての母親のわが子可愛さで、過保護一辺倒で育てられ完璧なマザコン人間にされてしまった幼い子供に、これ又強烈な自己中心の
塊
(
かたまり
)
で身勝手極まり無い最低最悪な思い込みや入れ込み等で凝り固まった到底、人としての資質など一欠片も無い父親や、家族親戚等の多くの取り巻き連中が寄ってたかって世間一般の常識(非常識?)感覚とやらで全ての子供は、生まれると直ぐにお寺や教会に連れて行かされたり、お参りだ洗礼だっ◯◯だと言った、訳の解らないしきたりや習慣等をガンガンと叩き込まれてしまいます。
只、身勝手で我儘な親が大好きだからと、チンケな
半被
(
はっぴ
)
を着せられ、可笑しな化粧迄させられて勝手にお祭りに連れ出され、
神輿
(
みこし
)
を担がされたり、子供には一切の有無を言はせず世襲の如く、我が子を相撲取りだ、卓球選手だ、ゴルフ選手だ、柔道家だ、ボクシング選手だ、サッカー選手だ、医者だ、政治家だ、◯◯◯役者だ、当家の跡継ぎだ、と我儘の限りをつくし喰いものにし、幼少時から誘導したり強制したりのやりたい放題で、これ又見事にトラウマ化したお子チャマにしてしまう。
物心付くか付かない内の子供に、ともかく何一つ正しい事の無い間違いだらけで身勝手な思い込みで、四股を踏ませたり、ラケットの持ち方を教えたり、サンドバックを叩かせたり、ドライバーのスィングをやらせたり、子役の演技をやらせたり、ラケットを振らせたり、・・・・・これを止める事は誰も出来ません。
『こんな酷い行いは、人としては絶対にやってはならない大きな犯罪行為では?』
勿論、我が子に多くの知識や磨き上げた親の知識や思い入れをきっちりと伝承し、しっかりした道に導くのは、親として素晴らしい事で有り当然の義務でもあります。
確かにこれにより、ほんの限られた僅か数%の人が一瞬、世間の誰もが羨む「☆大スター☆」になり、活躍する華やかな時期を勝ち取る事もありますが、その人の人生の中ではそれは決して長い物では無く、やがて世間の誰もが話題にもしなくなる
翳
(
かげり
)
りが出て来た時等の差は物凄く古今東西、犯罪者や殺人者になったりとこれ又、世間を
賑
(
にぎ
)
わす立派なスターとなる話題等は枚挙に
暇
(
いとま
)
が有りません。
ここに大局観的視野等全く無い、我が子可愛さに狂いに狂った
空盲
(
あきめくら
)
状態で、只ちっぽけな◯◯メダルや記録を要領良く獲れただけで「自分の子供は人とは違う」と自己中心で、自惚れの強いわが子そっちのけで己の自己主張に専念する、低次元で我儘な親が我が子を思い通り育ててしまうその子供の親の人としての力量、人格がはっきりと露呈します。
良く言う【親の顔が見たい】とはこの事です。
然し、仮にそれがそうだとしても子供の方は一切、親に対し一切の文句を言ったり恨みを持ったりは出来ません。
如何なる状況下でも人としての資質を
培
(
つちか
)
う努力を確実にするかしないかは全てその人に課せられた任務であり宿命で有り「天命」なのです。
己の人生は己の努力で造り上げ、
勝ち取る物で有り、
誰一人恨む他人は居りません。
他人に対しては、常に只感謝のみです。
『名誉の為?』 自己中心で凝り固まり、常に己の自己主義の主張のみに終始し、目先のさもしい銭と名声だけにうつつを抜かす極めて根性の腐りきった自己中心の塊の親や、その取り巻き連中は、肝心要の子供の将来等は微塵も考えず、少々大きな大会の僅か数グラムの◯◯メダルの為に、名誉の為、優勝の為、◯◯記録の為等と、己がやれなかったさもしい思い込みだけで子供の方は右も左も分からずの孤独で惨めなピエロ役の一本道を否応無く突き進まされ、己の姿に気付くゆとりや余裕等は一切与えられず、スペインの諺の【自分は人とは違う】と言う、実に哀れな自尊心や自我意識だけが人一倍強い、人の話を聴く耳を持てない実に哀れで淋しい人に育て上げられてしまいます。
仮に「大スター」と言う名声を一瞬勝ち取ったとしても大切な事は、人としての資質が備わっていなければ、その後の人生で
翳
(
かげ
)
りが出て来た時等にはとんでも無い忌まわしい事件を引き起こす、と言うケースも多々有るのです。
結局気付けば【蛙の子は蛙】と言う様に、その子供は実に始末の悪いバカ親や取り巻きと同じ道を、否応なく歩かされてしまうのです。
それを打ち破り充実した人生を構築するかしないかは全てが己の責任で有り、その人の逃れる事が出来ない宿命なのです、と言うお話です。
このくだりも、世襲行為や親の思い入れで
育まれた道筋を歩んでいる人の
人生や、
親の行いを肯定したり否定、批判しているのでは有りません。
日常生活からのヒント
『日本漢字の凄さ』
弘法大師(空海和尚)
出典:
ウィキペディア
世界に誇れる日本の伝統文化の一つに書き文字文化と言うのが有り、大別しますと、【ひら仮名、カタ仮名、日本漢字】の三種類が有ります。
(近年、世界中で話題となっている絵文字と言う新しい文化が台頭して来ましたが)その内のの日本漢字の源である中国の漢字は千三百年程前の平安朝の時代初期に中国から空海和尚⇒弘法大師(宝亀5年774年~承和2年835年)が持ち帰り広めたと言われ、それから長い
年月
(
としつき
)
を経て進化と発展を続けて参りました日本独自の日本漢字を私達は普段余り気にしていませんが私達の心を豊かにしてくれる世界に誇れる素晴らしい物で有り、一つ一つが絶賛に値します。
その幾つかを覗き見してしましょう。
『人』 このたった二画で構成されている実にシンプルで美しい人と言う漢字。
この字の素晴らしい所は人は決して一人では半人前で、もう一画即ち他人の助け(⇒力)が有って人は初めて「人」になれるのですよ、と言う事を明確に表しているのです。
論語の子曰く【人は一人では只、間違いのみを冒す実に厄介な生き物で有る】と言う一説を知る際にも的確な真実を教えてくれますのがこの漢字です。
更にこの字の凄い所は一画目と二画目の大きさや長さ角度、力強さが
夫々
(
それぞれ
)
微妙に異り、各々にしっかりとした個性が有り、二画目が主格よりも少し下がった位置でしっかりと寄り添って支え合い認め合い、立派な一つの字を構成しているのです。
若しも(半人前の)お子チャマをこの【人】と言う字を使って表わしますと、何を言っても何をしても常に自己中心の俺俺(私,私)に終始し、相手に対し僅かのおもんばかりや寄り添い等の心や気持ち等は有りませんので、僅かな傾き等も全く無い、一画一画が
我
(
が
)
の強い自己主張ばかりの突っ張り切った状態に徹し切っている唯我独尊の世界なので、残念ながらとてもここで述べている美しい【人】と言う字にはなれません。
『離婚要因』 人は素晴らしい出会いや体験をして素敵な伴侶を選び出しやがて結婚し、子供を授かったりして幸せが暫くは続きますが、時とともに些細なお互いの主導権争いの日々を過ごしたりして
後々
(
のちのち
)
の離婚要因や破局となり、つまらなく侘しい結婚生活にして、たった一度の人生の全てを台無しにしてしまう人もこの世に沢山おりますが、そんな時にはこの「人」と言う字を良く見ると良いでしょう。
この字の一画目と二画目の大きさや力強さの比率は決して50対50の対等では無く、二画目が一画目よりやや下がった位置でしっかりと主格の一画目を支えているのです。 人は人と接する場合は夫婦でも誰とでも、常にお互いがお互いを認め合う事が大切な事で、そこには常に相手に対し心優しい譲る気持ちが必要だと言う事をこの字は見事に示しています。
仮にその譲る気持ちが極めて僅かの1%で有ったとしてもその比率は「51対49」となり、水は低きに流る論法で必ず動き始め、やがて全てが変わる可能性が有ると言う事を、たった二画のこの「人」と言う字はしっかりと教えてくれているのです。
ダーウィンの進化論の法則の通り全ての物事は「50対50」の変化無き
膠着
(
こうちゃく
)
状態に陥ってしまっては全て、絶滅に至る危険が有るのです。
な~んだ、たった1%で良いのかっ ところが、到底人とは言えない自己中心で凝り固まった「仙人もどき」のお子チャマの皆さんは「何で俺が(私が)あの人にへり下る必要が有るの?」とか「私(俺)にもプライドが有るから僅か1%だって嫌だよ」と、自分を変え様とする心も勇気も気力等は微塵も有りません。
これでは人と言う字にはなれませんし全くお話になりません。
『一画目は?』 敢えて申しますと、この一画目はその昔マンモス狩りや戦争に駆り出されたりして、常に家の外に出る使命のDNAを持つ男性(⇒夫)が担い、二画目は家の留守番、家事子育て全般をする女性(⇒妻)がその任を担うと言った宿命的な傾向が有り、お互いのバランスが程良く取れて、初めて素敵な「人」と言う字になれるのです。
『バランス』 この字の一画一画夫々が立派な事も確かに大切ですが、それよりもっと大切なのはお互いの大きさ、長さ、傾き具合等のバランスが綺麗に取れているか否かがこの文字が美しいかどうかの重要な判断基準になります。
どちらかが強烈に大きかったり凄かったり或いはその逆と言ったアンバランス状態では素晴らしい人と言う文字或いは素晴らしい夫婦にはなり得ません。
勿論、今はマンモス狩りや戦の時代では有りませんが、出来ましたら主導権争いや、夫婦喧嘩離婚話なんかは止めて相手をおもんばかり、力を合わせ仲良くやりましょう。
この文字の素晴らしさはたった二画で人は一人前の人になるにはお互いが切磋琢磨して、相手をおもんばかる心が大切だと言う事をしっかりと教えて呉れているのです。
『信』 信と言う文字は見た通り、人(⇒人偏)+言、人が何かを言うとなっています。
人は全ての生き物の中で会話を駆使出来ますので会話の機会は極めて多く、この漢字も日常会話で実に多く用いられます。
使用頻度の高い物としては
「信じる、信仰、信者、信用、信心、信頼」 等といった単語が思い浮かびます。
論語の【人は一人では何一つ正しい事が出来ない、実に厄介な生き物で有る】の、正にその人が何かを言うと言う、この【信】と言う字に皆さんがどう対処対応すべきかはその人の力量が問われます。
これは宗教の世界では当たり前に語られています【人は(これに関しては)私は間違っていない】と身勝手な邪心を持ち思いこんだ時点で、その人の心には傲慢で
驕
(
おご
)
りの心が宿り、やがてそれが取り返しのつかない破局へと繋がる、と言います様に、人一人の考えに正しいものは何一つ無いと言う事を、しっかりと肝に銘じる必要があるのです。
それ故一人前のお方の言われるお言葉は【信】じられますし、その逆の世の中殆どとも言える、相手の事等は一切構わずの半人前人間で、俺々詐欺等をやってのける人物のお言葉は当然「信じられな~い」となりますねぇ。
宗教家の皆さん、信ずる者は救われるのでしょうか?
『◯◯君の為』 これは世の中に実に多いい、例えば上司が部下に或いは親が子供に接しますと、どう言う訳か偉そうに「私は貴方の為を思って・・・・」等々と恩着せがましく自信満々用いて使われる実にアホで間抜けな言葉です。
この様な上から目線の相手を蔑む言葉を軽々しく使う人々は皆身勝手極まり無い全てが、自己中心の自己判断、自己評価、自己美化で凝り固まった最低人間で、更に図々しいと言うか恥知らずと言うか、
自惚
(
うぬぼれ
)
は人一倍強く「私は結構、常識有る優しい相手には気配りをする親切な人だ」等とこれ又実にエゲツ無い思い込みをし、実際は常に他人に不快のみをゴリ押ししている、とても人とは呼べない恐っそろしい間抜けで最低な自己中心の皆さんが口にするのが、この「◯◯君の為」と言った、実にお粗末な会話です。
小さな親切、大きなお世話
『偽』 この「◯◯君の為」の◯◯君つまり人⇒
人偏
(
にんべん
)
に為が合体しますとその字は堂々と「
偽
(
にせ
)
」と言う字になります。
つまり「君の為」等と偉そうに言ってますのは、偽その物でその言葉を使う人の自己顕示欲の主張や自己防衛のまやかし以外の何物でも無いのです。
若しも他人を思いやる心がお有りなら、普段から楽しい付き合いを数多くして心を開き、身勝手に人を決めつける最低でアホな偽行為はせず、先方から「是非貴方に」等と言われた時点で初めて誠心誠意、好意を持って人に尽くす事で有り身勝手な自己評価、自己美化、自己判断、の驕りや自惚れに終始して偉そうに「自分は親だから、社長だから、上司だから、私に間違いは無い、ここは私に任せて」と言う様な最低の決めつけで、人に恩を売りつける行為等は絶対にしてはなりませんし【一人前】の人はそんなダサい事は、決してしません。
『情けは』 この話と良く似た一つに
【情けは人の為ならず】と言う素晴らしい格言が有ります。
この情けは・・・の
上
(
かみ
)
の句に続くこれ又実に素晴らしい
下
(
しも
)
の句が有って、この格言は完成するのですが、皆さんこの下の句をご存知でしょうか?
この人の為ならずの【為】は、先程登場の貴方の行いは「人+為の偽」行為で有ってはなりません。
人に尽くす時は常に己の全智全能を傾け誠心誠意人に尽くしましょう。
即ち人の為に尽くす情けとは決して偽りで有ってはならず、常に一生懸命心を入れてやりましょうと言っているのです。
この格言の上の句に続く下の句も実に素晴らしい。
情けは人の為ならず
【
巡
(
めぐ
)
り巡って己に返る】
です。
もう一つ
「いつ迄も有ると思うな」で始まるこれ又実に素敵な格言が有ります。
この有ると思うな◯と◯の上の句は、皆さんご存知と思われますが、こちらもこの上の句に続く実に素晴らしい下の句が有って、見事な格言が完成します。
皆さん、この下の句の◯◯に入る漢字をお埋め下さい。
★ヒントは:
いつ迄も有ると思うなっ◯と◯、
無いと思うな◯と◯◯、です。
【正解は
第四章の最後に記載して有ります】
『嘘』
人は日々、様々なストレスや困難と出逢いますがそれらはその人にとって悪い物は何一つ有りませんのでこれを避けたり遠避けたり拒絶する必要はありません。
一人前の人は「己を磨き上げてくれる素敵な研磨剤」と言ったプラス思考に捉え己を変える努力をしますがお子チャマは皆ストレスや緊張状態に陥ると口から発する言葉は、不平不満や愚痴と言ったマイナス思考の発言になります。
これはその人が一人前の人になる努力を怠って来たツケが必ずその人の口から虚ろな会話を齎すのです。
虚ろな言葉を口にすると、それは口偏に虚しい⇒「嘘」と言う文字になります。
口は禍の元⇒沈黙は金に勝る、
とも言います。
嘘つきは泥棒の始まり 福沢諭吉七訓の最後、第7番目の訓示は、
世の中で最も悲しい事は嘘をつく事です。
『忙』 この字も一目で直ぐに分かります。
心(⇒
立心偏
(
りっしんべん
)
)に亡くなる忙と言う字は人の心が亡くなると言う事を意味しています。
心が無くなるとは有る意味、時間を失う事とも繋がり、忙しい人は時は金なり(⇒TIME IS MONEY)の時間に翻弄され、金にゆとりが無くなり心の余裕を失い少々惨めで卑しい人と言った意味合いも含まれます。
そうなりますと、余り軽々しく忙しい忙しいとは言いにくいですね。
良く用いられる日本の諺の【貧乏暇なし】の方は人が貧しくならない様に日々、コツコツとやる姿を表していてこちらには時は金なりと言った、銭金に翻弄される意味合いはありません。
『忘』 心と言う字の頭に堂々と亡くなると言う字が乗っかる忘と言う字は文字通り、心ここにあらずを意味し、何一つ心に記録されていないつまり記憶が無い、忘れると言う事を意味しています。
この様に日本漢字の凄さ、素晴らしは同じ単語の組み合わせや位置一つで、物凄い量の情報を的確に教えてくれているのです
『惜しい』 こちらも心(⇒
立心偏
(
りっしんべん
)
)+昔の惜しいと言う文字。
世の中に実に多いいマザコンから脱却せずの、お子チャマレベルのおじさんやおばさん達は、自分より少しでも年若い人達に接すると途端に【俺の若かった頃は・・・私の◯◯の時代は・・・】と全てが嘘とはったりだけの己に都合の良い所だけを取り上げた自己美化の過去の自慢話を偉そうにしまくります。
聞かされる方は皆「そんな話はどうでも良いよっ、勘弁してくれよ」と思っていますが、自己中心で凝り固まった最低最悪の唯我独尊の他人の言う事等は全く聞く耳を持たないおじはん、おばはん達は一切無視、意気揚々としまくります。
人が人に聞かれてもいないのに嘘だらけの己の過去の話を美化して偉そうにする人に、残念ながら明るい明日は有りません。
つまり「心+昔」の話を得意げに話す人は皆、自己中心で惨めで実に惜しい哀れな人なのです。
人は自らが自らの過去の話を問われてもいないのにする事は絶対にしませんし、してはなりません。
『広辞苑』
広辞苑 第二版
出典:
ウィキペディア
広辞苑には26万語以上の日本語が収められています。
皆さんもこの日本漢字の凄さ、面白さを見つけ出し多いにお楽しみ下さい。
『グローバルな物の見方』 古今東西、人は皆宗教の世界等でも語られる、誰もが持つ次の五欲と言うのが有ります。
【食欲】 は、食べたい、飲みたい
【財欲】 は、お金が欲しい、家が欲しい、車が欲しい、◯◯が欲しいと言う類、全ての物欲もここに含まれます 【色欲】 は、異性を求める欲
【名誉欲】は、人から褒められたい、認められたい、嫌われたく無い
【睡眠欲】は、眠たい楽をしたい
多くの長男長女そして一人っ子の人に見られる顕著な特色の一つに、何でもかんでも数多くの物を集めまくる収集癖と言うのが有ります。
実はこれも人類に課せられた或る種のDNAの一つなのかも知れませんが、長男長女一人っ子の皆さんに共通していますのは、地球や宇宙の環境問題とか貧困国の食糧問題等と言ったグローバル⇒(地球的)で大局観的視野のお話等には比較的無頓着で、只々目先のご本人の思い入れの強い、骨董品でも車でも鉄道模型でも切手でも、ともかく周りの人が呆きれ返ってしまう程手当たり次第収集し、貪欲に己の欲求を満たす事に専念します。
これは筆者がアフリカの内戦状態の国
に行った時のお話です
『難民キャンプで』 その国のお役所に勤める一人の日本大好き青年が現地迄私を案内して繰れて、到着したその現場で何気なく彼がつぶやいた一言。
「日本にはお相撲と言うスポーツが有りますがそのお相撲さんや関係者およそ七百人の皆さんが消費する食糧が有れば、ここの食糧問題は、一気に解決されるんですがねぇ~」
と言い出したので私はびっくりしました。
これは恐らく、彼が取り組んでいた先進国と開発国途上国の食糧需給の実情を当てはめ換算したグラフの、先進国の肥満人間の消費するカロリー数値と現地の難民が必要とするカロリー数値がたまたま近似していたので、彼はこんな事を言ったのではないかと思われます。
何故なら彼はこうも言ってました。
「私は一度だけ日本に行った事が有ります。その日本に行った時の一番の楽しい思い出は、お相撲をTVで見るのが大好きでした」
『長男、長女、一人っ子の宿命』 種族保存や、種族維持の為か長男、長女、一人っ子には常に数多くの物を独り占めする収集癖が強く働く傾向が有るのも紛れの無い事実です。
それでは次男次女の性格は如何な物でしょうか?それは幼少の頃からいつでも、お兄ちゃんお姉ちゃんには絶対負けたく無いと言う、強烈な負けず嫌いが働き、常に自分が一番で無いと気が済まないと言う素晴らしい自己顕示欲が強く、自己主張、自己アピールの極めて強い自信満々の自慢家、と言った傾向がはっきりと見られます。
ユーチューブ「だんご三兄弟」
画像出典:
ウィキペディア
童謡の団子三兄弟でも、しっかりと歌われています。
《♬♬♬♬自分が一番次男、次男!♬♬♬♬》 それでは、三男三女の性格や傾向は?⇒これはどうぞ、皆さんでお考え下さい。
『人気番組』 或る国のTV局の、人気番組に◯◯鑑定団と言うのが有ります。
この番組を盛り上げている長男長女一人っ子、そしてそれと同じ様な性格をお持ちの皆さんに共通していますのは、自己満足の為には鋭意努力を惜しまずの人々が多く集う人気の高い番組。
勿論これは娯楽番組ですので大気汚染、地球環境の破壊問題とか、飢餓の問題とかの大局観的視野の問題等は当然関係無く、ひたすら己の自己満足する物を掻き集め、その品定めに没頭し自己満足をしている極めて心の狭い持ち主だと言う事をお気付きになるお方は誰一人もいませんよね。
むむむっ、これは筆者のやっかみ?
『中国の時代』 アメリカの世紀とも言われた二十世紀⇒(1900年代)が終わり、時代が二十一世紀に入るや世界情勢は急速に変わり始め2008年の北京オリンピック開催を機に、アジアの大国中国がその座を奪わんとする勢い。
この国の国策に最近は大分緩和されて来ましたが、自然界の法則を無視して考え付いた浅はかな一人っ子政策と言うのが有ります。
ひたすら自我意識の強い性格の己の自己満足の為に、何でもかんでも多くの物を徹底的に独占する一人っ子が溢れるこの国の皆さんはともかく金及び金製品に強いご興味がお有りです。
無論、この世に誰一人金を欲しがらない人は居りませんが、この国の皆さんはそれが特に異常で、それを得る手段等は一切選びません。
それが例え相手を傷付ける窃盗や強盗であろうが、詐欺で有ろうが、殺人で有ろうがパクリで有ろうが、過保護でマザコンのまま育ち他人の事等は微塵も構わずひたすら、視界の狭い独占顕示欲の強い一人っ子の性格剥き出しで、己さえよければと言ったさもしい欲求を充たす事のみに強烈に専念し、今や世界中の金はどんどん中国に流れ込んで行ってます。
勿論、これは金だけでは有りません。
銭儲けとなる全ての物が、自己満足の対象としてこの国に急速にどんどん掻き集められています。
あさはかな近視眼的発想で決められた人口増加歯止め問題の解決策にと、一人っ子政策と言う間抜けな過去の国策のツケとも言える、◯◯鑑定団を支えている人達同様の多くの心無い傲慢収集家によって間違いなく急速に二十一世紀の世の中は動き始めているのです。
弱りましたねぇっ~!
『プラス トーク』 口は禍の元、或いは沈黙は金に勝る等と申しますが、会話の際に少々気配りをすると良い結果になる事が有ります。
かを口にする前にほんの少し心の中で整理整頓し、全ての物事をプラス思考に変える努力をする様にしますと、不思議な事に全てが楽しい方向に向かいます。
即ち相手を良く理解しいつでも常に感謝の気持ちを持ち、更に相手を褒める心掛けをしますと貴方の周りに素敵な仲間が沢山集まって来ます。
本当です プラストークは決して嘘つき人間が引き起こす虚ろな会話とは違い、これを心掛けると人は自然と心から明るい人になれるのです。
これは当たり前の話ですが、実はこれも言うは簡単で決してそんな簡単に達成可能な
代物
(
しろもの
)
では有りませんが、物凄く魅力が有りますので、チャレンジする価値が有るのでは?
さてさて、お話が
少々横道にそれてしまいましたが
再び日本漢字のお話に戻りましょう
『伴侶』
伴侶 伴侶(⇒パートナーPARTNER)、この字も実に素晴らしい人生の指南をして呉れています。
伴侶の伴と言う字は人+半で、人とは生まれつき半人前なのですよ半人前の人一人では決して何一つ正しい事は出来無いのですよと言う事を的確に教えてくれています。
これが糸偏になりますと
絆
(
きずな
)
と言う字になり、こちらも半人前同士が繋がると言う意味で、繋がる努力を惜しんでいてはいつになっても半人前ですよ、と言う事を示唆してくれています。
伴侶の伴に続く侶は人が口と口を合わせ合う行為即ち心が通うお喋り(⇒会話)をしたり、共に食事や素敵な
団欒
(
だんらん
)
をしたり心を大きく開き抱擁、接吻が出来る程の真の夫婦或いは素敵な友人や仲間を意味し、素敵な伴侶を得た時点で始めて人は一人前の人になれると言う事を教えてもらっています。
『ゴミ屋敷』 近年、巷で話題の認知症、徘徊、ゴミ屋敷、高齢者による交通事故、孤独死等々の様々な厄介な社会問題を引き起こしている皆さんは、人として最も大切でやらねばならないこの伴侶造りの努力を蔑にして来た為、他人には心が開かずの心侘しい状態の代償が露呈して引き起こしている話題の数々です。
良く言う【馬鹿は死んでも治らない】とは正にこの事です。
この様な人達は家族とは最近は久しく連絡なんか無いし家族どころかこの数週間、誰とも会わず「会話なんか無い日なんてしょっちゅうだよ」と言った実に侘しいお話を聞く事も有ります。
ここまでは、
半人前の人が一人前の人になるにはっ
と言ったお話を様々な形で、
「凡そ【戦】とは敵を知り、己を知る、之百戦危うからず」
「いち早く、自己中心発想から脱却しよう」
「常に他人を良く観察し、理解し常に相手を慮る人になろう」
と言ったお話が数多く登場して参りましたが、
どれも一人前の人になるには人は一人ではなれず良き心の伴侶を得て初めて人は人になれると言う事で、この伴侶作りを一生懸命努力する事は、人になる為の絶対条件なのです。
これを実践しますと、その人の人生を劇的に楽しい物に変えます。
何故かと申しますと今、目の前にいる人が明日の自分の素敵な伴侶かもとなりますと、それこそ呑気にポケっ~となんかしていられ無くなるからです。
不思議な事に素敵な出会いを果たした人は実に数多く居りますが、更にもう一段上の、正に本当の良き伴侶に巡り会えた、それこそ宝くじに数回当たった程の運の強い人は、日常生活で浪費をしない傾向が有り、消費と浪費が全てのこの銭社会から逸脱して行く傾向が有ります。
これは人の心やストレスと深い関係が有るのかも知れません。
『女帝』
1780年代、
玉座のロシア女帝エカチェリーナ2世
出典:
ウィキペディア
人は、生まれも育ちも食事も文化も教育も、しきたりも家族構成も何もかも、全てが自分とはまるで異なるアカの他人と共に、お互いが譲り合い協力し合い楽しく過ごして行く事が使命なのです。
それには良き伴侶を得る努力をするのが一人前の人になる最大の近道と言ったお話が続いて参りましたが、スペインの諺の私は人と違う、と言う拘りを頑なに決めこみ、己を変える事にはさして興味が無く、伴侶に対しても慮る優しい心等は微塵も無く【しもべ】程度に捉えて自己中心発想で凝り固まっている多くの女性⇒母親がいます。
その母親が可愛い我が子を溺愛してしまう事から派生する過保護、そしてその過保護から脱却出来ずのマザコンのままの哀れな半人前のお子チャマになるのです。
三つ子の魂、百までも
『独裁者』 歴史上の独裁者、或いは家庭内の鬼嫁とか女帝等と言われる人々は、皆自分だけはそうでは無い(⇒人とは違う)と手前勝手な自己判断で決めつけをしていますが、実はその殆どの人がマザコンの世界から一歩も抜け出せず、自分の行いは百点満点では無いけどそんなに間違ってはいないっ、と身勝手な自己中心の自己評価、自己判断に徹している一人前の人としての心の無い人々が多いのも事実です。
(だから立派な独裁者や鬼嫁様になれたのです)古今東西、世の中は訳の分からないその時代のしきたりや物の考え方に拘り、世襲とかその様な世界で生まれ乍らノウノウと育った、甘ったれで無知無能の、将軍、大統領、首席、国王、総理大臣、社長さん等々を筆頭に動いています。
てさて、ここを良く良く観察して見ますと、全ての人の道を掌握し、コントロールしているのは、実はこの母親と言う絶対的女帝なのです。
とんでも無いよ~、そんな事絶対無いよ~、それじゃ~男(⇒亭主や旦那)の立場とか役割は一体全体どうなるの?ご尤もなご質問ですが、残念でした。
とんでも無いよ~、そんな事絶対無いよ~、それじゃ~男(⇒亭主や旦那)の立場とか役割等は一体全体どうなるの?・・・ご尤もなご質問ですが【残念でした】自然界の種族保存のお互いの役目或いは役割は、生きて行くには常に異性有っての生き物で、異性同士が常に相手を認め合い大きな喜びや生き甲斐の道をサポートする事が重要な選択肢の一つで有ると言う事ですが、雄と雌とで明らかに異なる点は、出産と言う特別に大きな使命を担う雌に対し雄はその雌をしっかりと守る任務遂行に忠実でなけらばならないと言う大きな使命が有るのです。
自然界の法則では、雄は雌有っての雄なのです。
男性の存在は女帝の方からは、残念ながら単なるアクセサリー程度の存在と言うのはあながち間違いとも言えません。
これは靴と靴紐の関係の様に立派な靴には必ず立派な靴紐が必要ですが、靴紐の役目、役割はその靴本体が立派な靴としての役目をしっかりと果たすか否かが使命で、靴の本体が有って、靴紐はその存在感が有るのです。
男性の存在感は女帝サイドから見ますと何とこの靴紐的存在なのです。
無論、靴紐も靴もお互い無くてはならない物で、だからどちらが凄いとか良いとか、◯◯だ、と言った話では有りませんが
『ダメペット』
ペット これはペットを飼われている人への助言ですが【この世にダメ犬(ダメペット)は決していません、只この世にいるのはダメ飼い主だけ】と言う様に、この世にダメ亭主はいないのです。
只、ダメ女(⇒ダメ母親、ダメ母ちゃん、ダメ女房、ダメ姑)がいるだけと言う事になります。
全ての男性は一人前の飼い主ならば良いペットになり、ダメ飼い主ではダメペットになってしまうのです。
つまり女性が一人前の人ならば当然そのお父ちゃんや家族、ペット、は皆キラキラと輝きます。
全ては女帝様次第なのです。
げに恐ろしきは女帝なり
(しゅん)
縋
(
すが
)
る心
『恐ろしい 邪心』 乳離れ親離れの努力をし他人を大事にする一人前の人は当然、多くの人から好かれ楽しい幸せな人生が保証されます。
その反対のお子チャマでは、時が経つとともに誰からも相手にされずの世界に入り込んで行き、その心は必ず、満たされる事の無い寂しさや虚しさ、孤独感がむくむくと癌細胞の如く日々どんどん増殖し、時と共に醜い容姿風貌となり老けこみます。
皆、己の行いとは真逆の自分は誰からも愛され尊敬されたいと言った願望を人一倍強く持ち、全ての宗教家の皆さんと同様、身勝手で己に好都合の、実際には見た事も会った事も無い架空の人物や地位等に異常に強い関心や邪心を持ち、頑に
縋
(
すが
)
る心が増長し、異常に崇め敬うと言う実に可笑しく哀れな心の人になってしまいます。
『情報収集』 TVやスマホから多くの情報を熱心に取り入れ、他人の仕草には異常に強い関心を持つ心侘しい人になってしまい、ここでぐだぐだと述べている他人の言う事を良く聞き自分を常に変えて行く努力がどうのこうの等と言ったちょっと訳の解らない話は理解しようにも、幼少時の強烈な過保護がトラウマ化していてややこしい話の道筋等を見出す脳ミソは皆無なので、手っ取り早い世の中に実に多い自己中心人物の誰もが認める人物や、物、或いは肩書等を要領よく引用する甘ったれ考えに徹するさもしい人になります。
この様な「自分の考えに大きな間違いは無い」と身勝手に決めつけている自惚れが強いので、その人の心には仮想リーダーや憧れタレント軍団、有名人、格好いい家、車、骨董品、有名ブランド商品、ちょっとした地位や肩書等々に、異常な関心と執着心を持つ人になり貪欲にこだわり、これ又収集癖等の何かに
縋
(
すが
)
る、心侘びしい人になって多くの宗教家が生まれるのです。
勿論、当のご本人がこれに気付いたり、
目覚める事は有りませんが
『マスコミ』 一人前の人になる事にはそれ程興味の無いお子チャマは、自分に関係の無いアカの他人の行動には凄い関心を示し、手当たり次第己に都合の良い非難や誹謗中傷悪口に専念する達人となり得意げに己の自己主張のネタにしますので、マスコミ業界は待ってましたとばかり世界で起こる大事件報道と同等にマスコミニュースに力を入れそのネタ提供の為に巨大な勢力を発揮します。
お子チャマ方はその情報を得る為にはどんなに混雑していようがいまいが、駅のプラットフォームや町の中でも、ブランドバッグを携えながらスマホや携帯電話に没頭している姿は正にこの心理の表れです。
他人の不幸は蜜の味 「福沢諭吉」の七訓の中の第4番目の訓示は、
世の中で一番醜い事は、
他人の生活をうらやむ事です
『ネタ』 マスコミ業界はこの哀れなお得意様が喜ぶネタなら相手の事なんかはどうでも良い、何でも結構「誰が◯◯事件を犯した◯◯で死んだ、妊娠した、誰が◯◯で◯◯だ」と、当のご本人とは一切無関係のどうでも良い「ガサネタ」をデカデカと繰り返し報じ続けます。
実際その殆どは当のご本人とは全く無関係の物ばかりなのですが、それを有りとあらゆる手段で
流布
(
るふ
)
され続けられますと、肝心要の人として大切な心や生き方を見失い、どうでも良い事にうつつを抜かすハメになってしまいます。
今ではスマホ等の普及で大分変わりましたが、ちょっと前の時代では今より遥かに乗車率の高い満員電車の中で堂々と新聞を広げ他人への迷惑なんぞは気にする事無く、「ガサネタ情報」を食い入る様に見ている光景が当たり前でした。
『情報依存症』 マスコミ業界のネタは殆どアカの他人の事ばかり、仮にどこかの国の誰々さんが、「◯◯になろが、誰さんが突然死のうが、誰が結婚しようが、離婚しようが(妊娠しようが)、殺人をしようが、ホームランを◯◯本打とうが、◯◯メートルを◯◯秒で走ろうが、ホールインワンを◯◯回やろうが」どれもこれもご本人とは大した関係は全く無いのですが、不思議な事に四六時中TV、新聞、NET等に関心が向き、今やこの様な情報源無しではパニック状態になってしまう程、その画面や紙面に夢中になり、◯◯が勝ったので凄く勇気付けられる【それが命】等々と見事な迄にマスコミ依存症に洗脳された立派な奴隷になってしまっている事に気付く人は誰も居りません。
「暫く、TVやNETや新聞、一切のニュースからも疎遠の生活を続けたけど、想像以上に何一つ困る事なんか無かったよ」と言う人がいる様に、人は日々人としてやるべき事はかなり多く、どれもこれもハンパな物は一つも有りませんが、余りにも情報過多のマスコミ業界の【どうでも良い世界】にどっぷりと溺れてしまいますと、肝心要の人としてやるべき事がお座なりになる、と言う恐ろしい【罠】がそこには潜んでいる事を知るのも大切な事だと思われます。
『共通ファッション』 資本主義の世の中では、実に可笑しい滑稽な類似事項が数多く見られます。
その代表的なのが、この世の男性お決まりのスタイルは、七三の髪型にネクタイと言うダサい姿、それが例え◯◯国の王様だろうが、大統領だろうが、首相だろうが、国家主席だろうが、皆さんお粗末で滑稽なワンパターンスタイルです。
流石にイスラム原理主義者の皆さんは違いますが、その国の顔となる人物が銭社会維持の実にチンケで滑稽なファッションなのでその民も皆、同じと言う実に奇妙な現象が見られます。
『サラリーマン』 世界中のサラリーマンは「髪型を七三」にし、チンケなネクタイをし名刺とスマホを巧みに操り、すっかりその気になり日々を過ごします。
皆さんともかく自分が人になるにはやらなければならない乳離れや親離れをして他人を慮る努力等は一切やらず、やる事は全てアカの他人様がしでかすどうでも良いニュースに異常に強い関心を示し、パソコンやスマホとは大の仲良し、他人への迷惑等は一切気にせず人混みだろうが、混んでいる乗り物の中だろうがおらがペースの主張をしまくります。
高速道路で猛スピード走行し、事故や命の保証を投げ出してもスマホにしがみ付いている人や、我が子をママチャリに乗せ交差点の中をこれ又自分と可愛い我が子の命を投げ出しても大声で通話をしまくる携帯電話様々の、人としての資質や心等全く無い母親がいます。
正に、
立派な携帯電話やスマホの奴隷そのもの
『ダイエット』 貪欲に♡美食♡を好み、下っ腹にはタイヤの1~2本を装着した見事な肥満の二段腹三段腹のメタボ兆候と悪戦苦闘し、ダイエットには異常に強い関心を持ち見事に妖怪化した容姿風貌でTVやNET画面を真剣に覗き込んでいます。
マスコミ業界は待ってましたとばかり、◯◯グルメだ、知られざる◯◯の店とか、◯◯ダイエット特集と言った、実にどうでも良い適当で銭次第でどうにでもなる嘘だらけのガサネタ話題を
実
(
まこと
)
しやかに取り上げ、それにウツツを抜かしている間にも、
多くの貧困国の子供達が飢餓で苦しみ死んで行く現実には、
「そんなの私達⇒(俺達)には関係無いわよ、なんでそれが私達に関係が有るの?そこまで考えていたら生きてられ無いわよ」
と皆さん堂々と仰いますが、
若し、自分のお子さんがその貧困国のお友達となったりしたら、果たして無関心、無関係で良いのでしょうか?
「その時は、その時よ、ふん!」
大変失礼を致しました、誠にすみません
『アンチ・ブランド』 古今東西、視界の狭い自己中心を強烈にアピールする自己主張、主義に徹する哀れな人は皆、原始時代或いはいつの時代でも申し合わせた如く、鳥の羽、冠、イヤリング、ピアス、ネックレス、ブレスレット、指輪、時計と言った数々の装飾品等には特に強い拘りや関心を示します。
どう見てもご本人とは不釣り合いで可笑しなブランド品等を意気揚々と身にまとっている人を見かけますが、その人達が口にするお粗末で最低最悪極まり無い自己中心人物のワンパターン会話は「これって余り◯◯で無くて、私は結構◯◯よ」等々と、自己美化、自己評価の自画自賛で「私って余りブランド志向では無いの」と、ともかく何を言っても隙あらば常に自分、自分と、自分だけは人と違うとばかりに正に泥棒猫の様な自己主張の心狭い仕草や会話に終始し、最低最悪なセレブぶってる実に哀れでさもしい行為に徹します。
『警告』 こういった、未熟でお子チャマ神経の持ち主に多いいのが、普段はどちらかと言うと周りの人より健康には気配りをしていて一見、健康な人に見えるのに、ちょっとした寝違いや転倒やつまずき程度の体調変化から、手足の痺れ、ぎっくり腰、肩こりや、便秘、冷え性、◯◯過敏症と言った小さな警告から始まり、やがてそれが最近今一、体調が◯◯なの等と言っている内に、次に恐ろしい鋭い牙を剥き襲いかかって来る事態に陥る危険を持った人になってしまいます。
これ等はその人が普段の生活の中で視界の狭い自己中心の生活をしているのは大きな間違いなのでいち早くそれに気付き変えるべきですよと言う、実に有り難き警告の一つなのです。
それすらも理解せず尚、口を開けば私私、(俺俺)を繰り返し続けていますと、四十肩、五十肩、子宮癌、卵巣◯◯、乳癌、骨粗症、高脂血症、低血圧、痴呆症、認知症、糖尿病、脳溢血、脳梗塞、等々有りとあらゆる恐ろしい、病気のお友達がやって来て「貴方は今直ぐ(一人前の人に)変わる必要に迫られていますよ」と言った更にはっきりした警告を受ける事になります。
それでも尚、自信満々「そんなバカなっ」と己を過信し、己を一切変えないでいると、更に恐ろしいこの本文のテーマの幸せな生き方では無く、多くの病いや多くの事故や災いを自らが呼び込む哀れで淋しい人になってしまうのです。
実はこの冊子はそうならない為を切に願って、書かれているのです。
音楽がもたらす大きな力
『譜面の誕生』
無伴奏ヴァイオリン ソナタ1番 BWV1001 の自筆譜 (1720年) – J.S. バッハ
出典:
ウィキペディア
この冊子の前半に登場の、スイス生まれの哲学者ルソーが作曲した【むすんでひらいて】が、世界最初の音楽療法(Music Therapy)の曲で有ると述べましたが、音楽と人の心との繋がりには深い物が有り、その凄さ素晴らしさは、正に一つの国の将来をも動かす程の大きな力ともなります。
中世のヨーロッパでは宗教を広める為に、盛んに「讃美歌」が持ち入れられ十四世紀のイタリアのルネッサンス(⇒文芸復興)時代には、讃美歌を記録する為の譜面作りの原型が考えられ始めます。
十七世紀には、ドイツでバロック音楽を広めた【音楽の父】のバッハ(⇒ドイツ・テューリンゲン生まれ、1685~1750)更にドイツで活躍し【楽聖】と呼ばれるベートーベン(⇒ドイツ・ボン生まれ、1770~1827)を始めとした、数多くの偉大な作曲家が登場し、この時代に譜面の完成度は著しく日々進化します。
音楽の専門用語に数多くのイタリア語やドイツ語が見られるのはその
名残
(
なごり
)
なのです。
『皇帝円舞曲』 中世のヨーロッパの王族や皇帝は、国を動かし統治して行くには音楽や絵画と言った芸術の力が絶大な物であると言う事を熟知していましたので、必ずお抱え作曲家や画家を数多く擁していました。
音楽家の方の代表的な例は、十九世紀にオーストリア皇帝のお抱え作曲家として活躍したのが【ワルツの父】ヨハン・シュトラウスⅠ世と【ワルツ王】と呼ばれるシュトラウスⅡ世で、華やかな皇帝の生活を忍ばせる皇帝円舞曲、芸術家の生涯他、数々の名曲が知られています。
歴史上数多く繰り返されている戦争には、音楽の力は絶大で絶対的必需品で、数多くの◯◯行進曲(⇒ラデッキー行進曲、軍隊作行進曲、トルコ行進曲他)や軍歌が生まれています。
こちら、日本の音楽の歴史も決して例外では有りません、初期の朝廷の時代から現在の宮内庁に至る迄、常に雅楽をしっかりと擁し、巷では庶民の心を表す、
流行
(
はやり
)
歌始め、民謡、長唄、俗曲、子守歌、馬子唄、わらべ歌、唱歌、童謡等々実に数多く存在します。
幕末から大平洋戦争が終結する80数年の間に作られた軍歌は、何と三千五百曲を超えると言われています。
音楽と人の繋がりと言うのは【七福人の神様】の中に弁天様がいる様に絶対的に必要な物とも言えます。
『癒し効果の力』 音楽には人の心を豊かに癒す力や勇気や元気、活力、やる気を生み出す力が有る故、国家が大きな目標を達成する為には必要不可欠な物となり、特に戦争
時
(
じ
)
には勇気がわき出す力即ち、肯定的(⇒ポジティブ)で明るく力強くなる為の行進曲や軍歌が多く用いられます。
音楽には凄い力が有り、人の心に必要な癒し効果や、病の予防や治療効果を齎す力が有ると言う事で、楽しい人生を構築するには音楽は必要不可欠な物(No Music, No Life)なのです。
『埴生の宿』
ユーチューブ「埴生の宿」
歌:鮫島 有美子
ユーチューブで歌詞の表示法
ユーチューブで歌詞の表示法 今から百年程前の明治時代の終わりの頃のお話ですが、或る中学校の担任になった男の先生が、新入生の中の一人の女子生徒が無言で無表情で登校して来たので大変驚き、その真意を解き明かす為に彼女の自宅を訪れます。
そこで分かった事は何と、その子が小学校四年生の時に彼女の家に強盗が押し入り、彼女のお父さんが彼女の目の前で惨殺されてしまっていたと言う事実を知ります。
それを知った先生始めクラスメートや学校関係者の皆が一丸となり、彼女の心の立ち直りに力を合わせますが、彼女はいつになっても無表情、何を聞いても無回答の日々が続きます。
入学式が終わり一週間程経った頃、先生はこの子がとても音楽が好きだったと言う話を聞いたので、音楽室に連れて行き、歌は苦手でそれまで一度も触った事も無かったピアノの前に座り、当時広まっていた、洋楽が沢山入った「文部省唱歌」の数々を歌い続けます。
やがて【埴生の宿】を歌い出した時に、それまで全く無表情だった彼女の目元が少しだけ、先生が弾くピアノの手の方に向いた様な気がしましたので、それからは毎日彼女と音楽室に行き、この【埴生の宿】を何度も何度も繰り返し歌い続けます。
暫くするとそこにクラスメートも集まって来て一生懸命、全員でこの埴生の宿を歌う様になります。
生徒達の協力によって先生はすっかり音楽の素晴らしさを知り、ピアノも多少上達し苦手意識も亡くなり、学校で催し物等が開催される時等は決まって、生徒達が「先生、あれをやりましょうよ」と言って、皆大声で【埴生の宿】を合唱する様になりました。
しかしそれでも彼女の表情には何の変化も現れず月日が経ち、やがて彼女の心は一度も開かないまま中学校を卒業して行きました。
卒業後も先生の所には毎年、年賀状が来るようになりましたが、賀状に書かれた賀春と言う二文字は見落としてしまう程小さく覇気の無い物でしたが翌年、そして翌年その又翌年となるに連れ、その賀春の二文字が段々と大きくなり、彼女が大学生の頃には成長した顔写真が載った素晴らしい賀状になり、更に数年が経過したある年の賀状にはその彼女の横に素敵な一人の男性が加わり、更に数年後にはもう一人の可愛い家族が加わり、すっかり嬉しくなった先生は、この
娘
(
こ
)
が中学校を卒業してから初めて連絡を取り、再会を果たします。
二人の共通した話題は、二十数年前のあの忌まわしい事件で、あの辛いどん底からどうやってそこから彼女が這い上がって来られたかで、すっかり明るくなった彼女は
「私が今日こんな幸せになれたのは、あの時先生が一生懸命弾いて歌って下さいました【埴生の宿】のお蔭です。
そして、周りの皆さんが一緒になって一生懸命あの埴生の宿を歌って下さっている時はいつも泣きたくなる程嬉しかったのですが、どうやっても表情に表す事が出来ませんでした。
今では私は「時間と音楽」は人にとっては、とても大切で必要な物だと言う事を強く知りました。」
と話してくれました。
この素敵な音楽療法を実践した先生は、その後或る大学の総長を務められ生涯、音楽が持つ、凄さ、素晴らしさを広める活動を積極的にされました。
『ト音記号』 この書き物の
表紙のデザインは音楽で譜面の最初に用いられる【ト音記号】が少し斜めに寄り添っています。
これは
第三章の人
と言う字を形どっているからなのです。
元気が湧くシンフォニー第三章(完)
シンフォニー目次
はじめに
序章
第一章
素敵な仲間
第二章
第三章
第四章
おわりに
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第四章