改訂版
近代日本の音楽の原点は《童謡》に有り
日本の近代音楽史と童謡の始まり 春川ひろし:著

童謡目次

1 童謡の始まり

2 童謡の歴史 大和田建樹...滝廉太郎

3 童謡の登場

4 初期の童謡作曲家長野県と童謡童謡の終焉

5 初期代表的作詞家野口雨情北原白秋...

赤い鳥と
金の船その後

作曲家と作詞家

6 おわ
りに

5 童謡初期の代表的作詞家
野口雨情(のぐち うじょう)
《大正の松尾芭蕉》
「野口雨情」
野口雨情
明治15年(1882年)~昭和20年(1945年)
茨城県北茨城市出身
出典:ウィキペディア >
赤い鳥の童謡作詞部門の担当者は北原白秋でしたが、
ライバル誌となる金の船(⇒後に金の星となる)の童謡作詞部門を担当し、生まれて間もない童謡を、立派に育て上げ、世に拡めた最大の功労者となり、大正の松尾芭蕉と称される、野口雨情は茨城県北茨城市の出身です。

彼の詩には、多くの作曲家が名を連ね、どの作品も実に多くの人々に愛されています。
代表作品
作曲曲名
本居長世「十五夜お月さん」 「七つの子」 「青い目の人形」 「赤い靴」 「俵はごろごろ」
中山晋平「船頭小唄」 「あの町この町」 「こがね虫」 「雨降りお月」 「シャボン玉」 「紅屋の娘」 「証城寺の狸囃子」 「兎のダンス」
上に列挙した曲を、ご覧頂くだけでも野口雨情が如何に凄い作詞家であるかが、お判りいただけると思います。
皆様の大好きな、仮に、童謡ベスト◯◯ と言ったランク付けをしたりしますと、その多くの曲を手掛けているのが、実は作曲家は中山晋平、作詞家は、この野口雨情となるのです。

「船頭小唄」
大正10年(1921年)の正月に、雨情は北茨城の実家に戻った時に、ちょっと不思議な体験をします。
それは、丁度その時、雨情の家の近くに東京から若いカップルがやって来ていて、土地の人が「お二人は何故ここに?」と、問いかけますと「自分達は東京にいても、何の仕事も無いし、この世では毎日毎日を、生きて行くのが辛く、明日が無いので、世を儚(はかな)んで、二人で利根川に身を投げ、心中するつもりでやって来ました」と告げます。
その話を聞いた、土地の人は驚き、一生懸命、二人を宥(なだ)め「ここは何もないけど、利根川の運河で、小さな船が有るから、頑張って、船頭になりなさいよっ」と、必死に二人を励まします。

「時代の記録」
この光景を目(ま)の当たりにした雨情は、庶民の事等何一つ考えず自己中心の塊で、無知無能のバカ政治家共の、闇雲に軍国主義を貫く、このやるせない、間違いだらけの世情をしっかりと後世に伝えようと心に決め、この情景をしっかりと刻み込み作詞をします。
それが雨情の代表作品となる名作、船頭小唄の一番の”花の咲かない、枯れすすき”になります。(作曲:中山晋平)

「レコード化」
この時代を克明に映し出した、やるせない心情をしっかりと綴った、雨情の詞と中山晋平の書き上げたメロディーは直ぐに、レコード会社の目にとまり、当時としては、有り得ない童謡(の様な存在)で有りながら、画期的な、SP盤のレコード化が為されると、これが空前の爆発的大ヒットを記録します。
そこに映画会社も飛びつき、当時最も人気の高かった、美人女優を起用して、大正12年(1923年)のお正月映画を製作しますと、これが空前の大ヒットとなり、巷ではこの哀愁をおびた船頭小唄のメロディーと映画の話題が沸騰していた、その年の9月1日に、未曾有の死者9万1,344人となる関東大震災が襲います。

船頭小唄の実にやるせない情景は、大震災によって引き起こされた悲惨な社会情勢と、余りにもぴったりと一致していたので、噂が噂を呼び、雨情は予知能力がある人間 と迄言われて一躍、船頭小唄と彼の名が世に知れ渡ります。

「流浪の旅」
巷の歌や映画の、大ヒットが有名人になっても雨情の実入りの方はいつになっても変わらず、震災後の何もかもが、混乱する2年後の大正14年、庄屋の長男息子の彼は仕方なく、北茨城市の実家を売り払い、気の合う作曲家の中山晋平達と、当時は日本の一部であった台湾旅行をしたり、仙台から始まる、東北地方各地を転々としますが、安住の地を得る事は無く、やがて北海道を転々とした後、小樽で少し落ち着く事になります。その小樽に住んでいた時に隣の村から雨情に突然、うれしい縁談が持ち上がり、そこで彼は、二番目の嫁さんを迎える事になります。

「あの町この町」
この中山晋平と台湾に行ったり、その後各地を転々と流浪し、実家を売り払い、己れの進む道を模索している、実にやるせない雨情の、心の葛藤を切々と描いているのが、(⇒だ~ん だ~ん おうち~が とおく な~る~」)と言う、茨城から、東京⇒台湾⇒仙台を皮切りとする、に東北地方を転々とし北海道に渡り、更に彼が行き着いた最北端の地が何と、樺太となる、延々数千キロ以上に及ぶ、やるせない流浪の旅を、極めて僅かな言葉少ない歌詞で表わしたのが、あの町この町です。作曲:中山晋平(大正14年)

「雨降りお月」
古今東西、無能政治家による悪政は確実に庶民の生活を厳しくし、最も切実な問題となる食べる物が無い、食糧難故の口減らしの為、どの家庭でも年の行かない可愛い娘を嫁がせたり、男の子は早くから苛酷な丁稚奉公に出すのが当たり前と言う正に苛酷な貧困の時代、独り者の雨情に隣村から、嬉しい縁談が舞い込んで来ます。

「人身売買」
この時代の子を持つ親にとって最も辛い事は、勿論、自分も日々空腹で堪らないのですが、娘や息子に「お母さんお腹すいた」と言われるのが、耐えられない辛い時代、そこに横行したのが、言葉巧みに各家庭の子供達を当時の金額で、15円程で買い取り、売り飛ばす、と言う人身売買が平然と行われていたのです。
昭和世代の人は、きっと覚えているのでは? と思われますが、当時の言葉に、人さらいとか、親が言う事を聞かない子供に対して人買いの小父(おじ)さんに言うよ 等と言った会話が、横行していたのです。

「シャラシャ~ラ~」
見合いも、一枚の写真も無い、質素な縁談が飛び込んで来た、雨情は15才の可愛い娘が嫁いで来ると言う嬉しさの余り、前の晩からそわそわと部屋を片付け、何度も風呂に入り、朝早く4時頃から小雨の降る外に飛び出し、未だ見た事も逢った事も無い、新しい嫁さんに大きな夢を膨らませ、一生懸命、待ち続けます。
やがて遠くからやって来た年若い嫁さんは、晴れやかな嫁入りと言うのに貧しさ故、親も付き人も無く、たった一人で、隣村から裸の農馬に乗ってやってきます。

その農馬も、昼間は畑仕事に絶対に欠かせない為、結構忙しく、この嫁入りは朝早くとなったのです。
一人の付き人も無く、雨降りなのに、貧しさ故、傘も無く ⇒(から傘ないときゃ~)と言った、その余りにも侘(わび)しい、嫁入り情況に、農馬の馬主さんが、少しでも派手やかにしてあげたいと、一輪の鈴をつけて送り出す光景。

これが小樽の朝4時の情景が「シャラ シャ~ラ~ シャン シャン 鈴つ~け~た~」の雨ふりお月の一番の歌詞です。作曲:中山晋平(大正14年)

「道草」
2番の「いそがぁにゃ~ お馬よ、夜が明ける~」は、漸く、雨情の目に見える距離迄やって来た、可愛い花嫁を乗せた馬が、近く迄やって来た所で、道端の草を食べたりしてなかなか、こちらにやって来ない小雨の降る、小樽の朝4時の情景を現しています。 
この情景が、基となって生まれた言葉が、待つ側のもどかしい気持ちを表した言葉の、【道草を食う】です。
「この2番は、当初は別の作品、だったとも言われています。」

「シャボン玉」
そんな小樽での或る日、東京の中山晋平から震災後の巷では、石鹸が無くなリ、その話題ばかり、この時代をしっかりと刻んで置きたいので、石鹸を題材とした作詞をしてくれないだろうか? と仕事に飢えていた、雨情に作詞依頼が、舞い込んで来ます。

「鎮魂歌」
雨情は、明治41年(1908年)先妻ひろとの間に生まれた娘が、僅か7日で亡くなってしまったと言う、悲しい体験が有り、か弱いその娘の命を、石鹸の泡に見立てた構想を、練っていましたので早速、題名をシャボン玉と決め、作詞をしたのです。
この二番の歌詞でしっかりと、亡くなった、自分の娘の事を描いています。
それ故、この曲は雨情の鎮魂歌とも言われています。
「シャボン玉 消えた、飛ばずに消えた
生まれて直ぐに 壊れて 消えた」
正に、大正の芭蕉と言われる一節です

「こがね虫」
皆さんの大好きな、童謡、こがね虫。作曲:中山晋平(大正12年)
震災後の暗い世相の中で、何故突然、こんな明るい黄金虫と言う題材が登場したのでしょうか? 実は、この曲の当初のタイトルは、こがね虫では無かったのです。

彼が震災後の生活苦から、代々続いて来たお蔵付きの、実家を売り払う事になった際、雨情にとっては子供の頃良く遊んだ、思い出懐かしい裏のお蔵に、辛い別れを告げる為に出向き、重い扉を開けたら、中から出て来たのが沢山の油虫(⇒ゴキブリ)軍団。

驚いた雨情は「お役人共は皆、この油虫と同じだ 何一つ、我々庶民の気持ちや、思い等を取り入れる事等無く、只好き勝手に自分達の賄賂ばかりを要求して、庶民は皆、こんなに苦しんでいるのに」と、この詞を、書き上げたのです。

無論、政治批判や、役人批判等は、厳しく御法度(ごはっと)のこの時代に、彼は敢然と政治批判をする気持ちになったのです。
雨情のつけた最初のこの詞の題名は何と、油虫 しかし、これでは子供には具合が悪いし、お上にも都合が悪いよっ と言う中山晋平の意見で、題名がこがね虫に改められたと言われています。

この様に間違った、世相や政治に対して、痛烈に批判するのにはやり歌を用いる手法は既に、350年程前の江戸時代のわらべ歌にも数多く、登場します。
皆様ここでちょっと気分を変えて、少し時代を遡(さかのぼ)って、
ご一緒に350年前の江戸時代を散歩して見るのは如何でしょうか?
《ご一緒に350年前の
江戸時代を散歩して見るのは
如何でしょうか?》
【どうぞ皆様、ここから暫くは350年程前の江戸時代に【タイムスリップ】して見て下さい。】
【どうぞ皆様、ここから暫くは
350年程前の江戸時代に
【タイムスリップ】
して見て下さい。】
「ずいずいずっころばし」
皆様が大好きなわらべ歌ずいずいずっころばしは、徳川三代将軍家光の時代の寛永10年(1633年)から大政奉還の慶應3年(1867年)迄の234年もの長き間、延々と続けられた、大名行列やお茶壷道中と深く関係しています。

「お茶壺道中」
古今東西、いつの世でも、世襲で、過保護と我儘一辺倒でノホホンと過ごす、庶民感覚から遠くかけ離れた、ボンボンの塊(かたまり)とも言える時のアホな権力者達は、只々己の腐りきった主義主張に終始。己、即ち将軍が如何に凄いかを庶民に知らせる事に、熱心に専念します。時の将軍家光は、江戸城で自分達が飲む将軍家直(じき)用の新茶一年分を毎年、京都の宇治から江戸城迄、実にものものしい行列をさせて運ばせたのです。
この大名行列とかお茶壺道中 の行列は実に凄(すさまじ)く、格別の威厳をもたせ、街道や沿道の庶民にとっては、只々恐ろしいばかりか、迷惑その物。

「お布礼」
一度(ひとたび)この大名行列やお茶壺道中のお布札(ふれ)が出されたら、庶民は農作業の最中で有ろうが何で有ろうが、街道に出向いて只、下に~下に~で、地面にひれ伏す事を、強いられるし、一行の侍共は我儘のやりたい放題、茶店の団子や酒等は、ただ食いするは、ただ飲みするは、茶屋の娘を無理やり手籠めにするは
ともかく、たまった物では無いが庶民は一切の文句や口出しは出来ない。一言でも物申せば、直ぐさま、侍の刀の餌食 ましてや、その行列の前を横切ったりしたら、

ある時、お茶壷道中の行列が近づいて来ているのに、夢中になって、遊んでいて全く気付かずの幼い子供が、親の呼ぶ声で慌ててその行列の前をよぎって家に戻ろうとしたら、直(ただち)にとっ捕まり、即座に民衆の前で見せ示めとして「打ち首!
更にその両親も、その場に引っ張り出され共に打ち首! となり、その先の道中、行列の先頭の、ひげ奴が持つ毛槍の先端に三つの血の滴(したた)る生首を曝(さらし)て行列、と言う実に惨(むご)い残酷な事件が起こり、巷で大騒ぎとなりました。

この事件は、尾張と美濃の国⇒(現在の岐阜県と愛知県)の藩主が、「これは実に惨い事件でとても許し難い 我が藩の通行は一切認める訳にはいかない」等と言い出し、一悶着となったりもします。
然し、こんな出来事が有っても、庶民は将軍批判等は、一切許されない御時世の中で、反骨精神旺盛なわらべ唄、ずいずいずっころばしが生まれて来たのです。

「ずいずいずっころばし」
ずいずいずつころばし ゴマ味噌ずいっ
(過保護の世襲のおぼっちゃまの周りには おべっかばかりのあほんだらばかり)
茶壷に 追われて とっぴんしゃん(戸をピッシャンと閉ざす光景が、とっぴんしゃん)
(目先のてめぇ達の飲むお茶の事、程度しか 考える事が精一杯の、頭がどうかしているよ)
抜けた~ら ど~んどこしょっ
(そいつらの 行列の前を 横切ったりしたら どうなるか 分かるだろう)
俵の鼠が 米食ってチュー、チューチュー、チュー
(将軍に群がっている只、私腹ばかり肥やしてる程度の悪い取り巻き悪徳侍共の、)
おっとうさんが呼んでも おっかさんが呼んでも行きっこな~し~よっ
(誰が呼ぼうが、例えそれが父親だろうが母親だろうが、馬鹿相手には出来ないから行列の前は 何が有っても絶対に横切るな)
井戸の周りで お茶碗かいたの だ-れっ
(・・・・・・・・・)
実はこの最後のくだりの「井戸の周りでお茶椀・・・」の詞や旋律は、明治以降になってからと言われ、多少違うと言う説も有りますが定かでは有りません。
いずれにせよ、このはやり歌が世間に広まった事は家光の思惑通り、庶民に将軍の権力が、いかに凄いかを知らせしめる事が出来たのです。

しかし、それでも時が百年以上も過ぎると、このはやり歌も人々からすっかり忘れ去られてしまいます。それが何故、今日(こんにち)でも多くの人々がこの曲を知っているのでしょうか? この小さな疑問を調べて見ましたら、凄い事実が判明しました。

「リバイバル」
幕末の大事件、1853年の黒船来航から、時の幕府は鎖国を解き、少しずつ開国準備を始め、欧米諸国との交渉模索を積極的に開始します。
2度のペリーの来航によって、和親条約が締結された暫く後に、アメリカやイギリスは横浜を中心に領事館を設け始めます。そんな幕末に起きた、一つの大事件が発端となり、このわらべ歌、ずいずいずっころばしが突然、リバイバルするのです。

「生麦事件」
文久2年(1862年)薩摩の国の、島津藩の大名行列の一行が江戸から九州へ向かう途中、神奈川県の生麦付近で、日本の慣習やしきたり等、何も知らずの馬に乗り、散歩を楽しんでいた、イギリス領事館の館長リチャードソンと、彼と共にジョギングを楽しんでいた2名の館員が、この大名行列の前を横切り、直ちに取っ捕まり、リチャードソン館長はその場で即刻、首をはねられ、切り殺され、他の2人も重傷を負うと言うとんでもない大事件が起こります。これはこの事件が発端となり、翌文久3年(1863年)には薩英戦争⇒日英戦争が、勃発すると言う、歴史上の大事件、生麦事件です。

「日英同盟」
文久3年に薩英戦争の、開戦前の事前協定の席上で、幕府側(⇒薩摩藩)は、はっきりと我が国の犯した野蛮行為の非を認める態度を示し、イギリスに正式謝罪をし、これからは鎖国を辞め、イギリスを国の師として文明開化をしたい と申し出た事で、交渉は僅か4日間と言う短い期間で戦争には至らず日英同盟と言う円満な形で、収められ、平和裡に決着となりました。

「同盟国イギリス」
ここから、我が国は素直にイギリスを国の師として、文明開化が始まるのです。
イギリス側から、賠償要求の一つとして提示して来たのが、18世紀半ば(1750年代)の産業革命の時代から登場し、大活躍し、既に老朽化してお役ご免の世界最初の古くてお払い箱となり、厄介な、粗大ゴミ処分に窮していた、初期の狭軌の鉄道機材を、丸々引き取れ と言う内容の要求でしたが、日本側は喜んで、その引き取りの申し出を受諾し、円満解決 早速新橋から横浜間に鉄道を敷き、近代日本を目指す文明開化が着々と、始ります。
正に、その後の日本に突如イギリスブームが巻き起こる原因の大事件です。
この様な世相の中の当時の庶民が、大名行列の前をよぎって、殺害された一人の英国人、リチャードソン館長が引き起こした生麦事件を知る一つの手段として、お茶壺道中の際に起きた、大事件をモチーフにした、ずいずいずっころばしが、再び、世に登場し、大流行し、今日迄延々と、歌い継がれて来ているのです。

「通りゃんせ」
皆様良くご存知の、わらべ歌 通りゃんせ、昔は小江戸と呼ばれた埼玉県川越市の川越城の鎮守として1624年酒井忠勝によって再興された三好野神社の創建は9世紀始め迄さか上り、当初は菅原道真を祭った事から お城の天神様 とも呼ばれていました。
境内には ここは何処の細道じゃ、天神様の細道じゃ の歌詞が刻まれた石碑が有ります。
一方 通りゃんせ の歌が恐らく全国津々浦々に広まった最初のわらべ歌で有ろうと言う事から、この三好野神社が わらべ歌 発祥の地と言う事でも知られています。

さて、行きは良い良い、帰りは怖いっ と有りますが何故? 行きは良いのに帰りは怖いのでしょうか?
実はこちらもこの当時の世情や腐り切ったお役人批判等が痛烈に隠されています。
まだまだ沢山有りますが紙面の都合も有りますので、

さてさて、ここ迄全て筆者の我儘な独断と偏見で身勝手な解釈で稚拙な注釈を付けて参りましたが、そろそろ何となくお首の周りが涼しくなって来ましたので先程の 「井戸の周りで・・」 の最後の大事な下りの解釈はどうぞ皆さんでお考え下さい。

どうぞ皆さん江戸時代散歩の
【タイムスリップ】を
解除して下さい

(野口雨情のお話に戻りましょう)
「こがね虫」
雨情は、世の中の間違いに対して、敢然と歯向かう反骨精神をしっかりと貫くわらべ歌の真髄を守り童謡の世界で数多くの作詞を貫いています。
先程も登場しました、皆さんの大好きな童謡、こがね虫には痛烈な、お役人批判が込められています。

《こがね虫》(大正12年) 作曲:中山晋平
(1)こがね虫~は金持ちだ~  金蔵たて~た 藏た~てた~
(お投人どもは金持ちだ~) (私腹を肥やして蔵建てた~)
飴屋~で~ 水飴~ 買って~き~た~
(政府の予算を自分たちのご都合良く巻き上げ~た~)
(2)こがね虫~は金持ちだ~  金蔵たて~た藏た~てた~
(お投人どもは金持ちだ~) (私腹を肥やして蔵建てた~)
子供~に~ 水飴~ な~め~さ~せ~た~
(てめ~達の部下や手下を賄賂を使って増やしてる~)

雨情のど根性は、正にずいずいずっころばしのはやり歌魂(だましい)をしっかりと引き継いでいます。
実はこの曲が書かれる2年前に、作詞家の浅原鏡村が、時代の不合理さを突いたてるてる坊主(大正10年)作曲:中山晋平をヒットさせた事が、政治批判は、タブーと思っていた雨情にこの詞を書く気にさせたと言われています。

「てるてる坊主」
「てるてる坊主」 (大正10年) 
作詞:浅原鏡村、作曲:中山晋平
(1)てるてる坊主 てる坊主 明日 天気に しておくれ~
いつかの 夢の 空の よに~ 晴れたら 金の鈴 あげよ~
 真面目に我々庶民の願いを適(かな)えてくれるなら「金の鈴」だってあげるよっ
(2)てるてる坊主 てる坊主 明日 天気に しておくれ~
私の 願いを 聞いた なら~ 甘いお酒を たんとのましょ~
 我々の願いを聞いてくれるなら甘いお酒だっていいよっ
(3)てるてる坊主 てる坊主 明日 天気に しておくれ~
それでも曇って泣いてたら~ そなたの首をチョンと 切るぞっ!
 だけどさぁ、賄賂ばっかりで何もしないなら、お前さん達の「首」をチョンと切るぞっ
三番の歌詞で正に「庶民を甘く見てはいけませんよっ!」と言ってます

雨情の作品の、十五夜お月さん、赤い靴、船頭小唄、あの町この町、シャボン玉、雨ふりお月、青い目の人形、うさぎのダンス 他、数多くの作品はどれも皆、実に感慨深い庶民の切々な思いや願いがしっかりと刻み込められています。

北原白秋(きたはら はくしゅう)
 詩歌壇の重鎮
「北原白秋」
北原白秋 明治15年(1882年)~昭和17(1942年)
福岡県柳川市出身
出典:ウィキペディア
大正11年(1922年)に白秋の作品、揺り籃の歌の詩が雑誌赤い鳥に掲載されると、たちまち大反響を引き起こし、多くの読者からこの美しい詩に是非メロディーを と言う要望が殺到し、翌年作曲家、草川信が作曲、これが大ヒットとなりました。
正に、西条八十の作詞で、成田為三作曲の、かなりやと、この揺り籠の歌は童謡運動を引き起こす、数々の名曲の中の最初の代表的な曲となりました。

「城ヶ島の雨」
白秋が歌人として知られる様になったのは、彼が明治の末期に、三浦海岸の三崎に住んでいた際、当時の社会の話題としては、初めてとも言える禁断の姦通罪に問われる程の切々たる、男女の愛に触れた城ヶ島の雨の詞を書き上げた為で、男尊女卑が当たり前の社会で男の心を描くと言う、男女関係の暴露記事等が珍しかった時代にこの詞は、絶大な話題を呼び、多くの賛同者を得ます。
周囲の勧めで、大正3年に彼は東京の芸術座の舞台で、この詩を発表する事になりますが、壇上で、いかにするかと言う、構想が中々決まらず、悩みに悩み、何と発表会直前に、思いついたのが、この詩を白秋自身が朗読するのでは無く、歌にして披露したいと思い付き、直ぐに作曲家の梁田貞に、作曲を依頼します。
梁田は白秋の、この難題の申し出を快く受け、当日の発表会に合わせこの名曲を完成させ、見事にこの美しい詞と素晴らしい旋律で、巷に大反響を呼び起こしたのです。
これにより梁田は誰もが認める作曲家で、そして白秋は生涯、大詩人家としての道を全うする事になり、数多くの素晴らしい作品を、世に産み出します。
代表作品
曲名発表年作曲
「城ヶ島の雨」大正3年(1914年)梁田貞
「揺り籃の歌」大正7年(1918年)草川信
「赤い鳥小鳥」大正9年(1920年)成田為三
「雨」大正10年(1921年)弘田龍太郎
「砂山」大正11年(1922年)中山晋平
「砂山」大正12年(1923年)山田耕筰
「雨ふり」大正14年(1925年)中山晋平
「からたちの花」大正14年(1925年)山田耕筰
「この道」大正15年(1926年)山田耕筰
「待ちぼうけ」大正13年(1924年)山田耕筰

西條八十(さいじょう やそ)
 日本人の心を捉えた大詩人
西條八十 明治25年(1982年)~昭和45年(1970年)
東京生まれ,大正7年『赤い鳥』創刊から参加
出典:ウィキペディア
童謡の代表作
曲名発表年作曲
「かなりや」大正10年(1921年)成田為三
「肩たたき」大正12年(1923年)中山晋平
「風」大正14年(1925年)草川信
「まりと殿さま」昭和4年(1929年)中山晋平
「東京行進曲」昭和4年(1929年)中山晋平
「東京音頭」昭和7年(1932年)中山晋平
「青い山脈」昭和24年(1949年)服部良一
「山のかなたに」昭和25年(1950年)服部良一

世の中に一躍童謡ブームを引き起こす引き金となった、北原白秋の揺り籠の歌と同様、大正7年(1918年)の『赤い鳥』に掲載されたかなりやの詩の発表から、太平洋戦争後に服部良一の青い山脈の作詞を手掛けたり晩年は人気演歌歌手島倉千代子の作品の数々の作詞をする等正に、不死鳥の活躍をした日本を代表する重鎮作詞家。


清水かつら(しみず かつら)
 童謡詩人
明治31年(1898年)~昭和26年(1951年)
東京深川生まれ
代表作品
曲名発表年作曲
「靴がなる」大正8年(1919年)弘田龍太郎
「叱られて」大正9年(1920年)弘田龍太郎
「雀の学校」弘田龍太朗
「緑のそよ風」草川信

鹿島鳴秋(かしま めいしゅう) 
清水かつらと、
雑誌『少女号』を発刊した
明治24年(1891年)~昭和29年(1953年)
東京生まれ
代表作品
曲名発表年作曲
「金魚のひるね」大正8年(1919年)弘田龍太郎
「お山のおさる」大正8年(1919年)弘田龍太郎
「浜千鳥」昭和7年(1932年)弘田龍太郎

海野厚(うんの あつし)
明治29年(1896年)~大正14年(1925年)
静岡市駿河区出身
彼の代表作品の背くらべの一番の歌詞の、(おととしの~)と言うのは、この作詞をする前の年は彼は肺結核で入院中だった為、実家に戻って来れず毎年この日に計っていた6人の弟達の背比べが出来なかったと言う弟想いの長男、厚の無念さを書き記しています。
彼は結局、この肺結核で29歳の若さで亡くなりました。
代表作品
曲名発表年作曲
「背くらべ」大正12年
(1923年)
中山晋平
「オモチャのマーチ」大正12年
(1923年)
小田切樹人
(じゅんじ)

赤い鳥と金の船のその後
「赤い鳥」
大正7年(1918年)鈴木三重吉によって発刊された、雑誌赤い鳥によって一躍世に出た童謡は、後期になって偉大な作曲家、山田耕筰始め、数多くの人々の活躍で童謡音楽の芸術性が確実に向上しましたが、他方では子供達、或いは庶民文化の世界から多少かけ離れて行ってしまった感が有ります。

それに対し、

「金の船」
金の船⇒金の星の系譜は、突如登場したレコード童謡に目を向け、飛躍的に童謡運動を推進した事で、確かに子供と一般社会と密着はするのですが、その後の世代に伝える、童謡の最も大切な心の歌、或いは時代背景を克明に映し出す、と言った古典童謡の持つ、大きな使命感からは多少かけ離れてしまい、端的に申しますと只銭とウケだけを狙った(正に現代社会の物の考え方と同様)マネーゲームに突き進んでしまった拡大混乱の、決着は一体どうするのか? と言った観点から覗き見るとこれ又・・・

しかし、大正初期にこの2つの雑誌がもたらした輝かしい日本の近代音楽史、そして童謡史にもたらした功績は実に素晴らしいし、全てが絶賛に値します。

先代の皆々様には只々、感謝です。
誠に有り難うございます。 (完)


作曲家と作詞家
「素敵な素材」
皆さん、どの曲も楽譜等に、必ず作曲家◯◯◯、作詞家◯◯◯と書かれていますが、これは一体、どうしてなのでしょうか?
作曲家とは、文字通り、音楽に精通し、旋律を自由自在に操る技能を持ち合わせている人、仮にその人がドレス職人だとしますと、繊維の性質や縫製のテクニック他、ドレス製作に関しての、あらゆる知識を有しているこの職人は、最高のドレス製作に、取り掛かるのですが、肝心なのは、このドレスを着用するのは誰なのか?

それが権威有る、皇帝なのか、誰もが憧れる美しい女王様なのか、それともハンサムな王子様なのか、可愛い王妃様なのか?
即ち、そのドレスを纏(まと)うモデルとなる、被写体が必要となります。
そのモデル、即ち題材に、位置するのが音楽では詞となります。
つまり素晴らしい曲には、必ず詞が絶対的必須条件で、最大の目的の詞⇒モデル無くして曲は出来ない、とも言えるのです。
それでは作詞家と作曲家のどちらが◯◯◯等と言った、そんな野暮な問題では無く、素晴らしい題材⇒詞に対して、それに相応しい旋律そして素晴らしい演奏により、一つの曲が完成するのです。
これには、生き物の大原則で有る「全ての生き物は、個体や単体では何一つ完成する物は無く、必ず異なる物同士が合体して、一つの物が完成する」と言う、物事の真髄が、しつかりと、貫かれているのです。

「童謡 誕生までの流れ」
わらべ歌から唱歌の流れを、代表的な曲で羅列しますと かごめ かごめ、せっせっせ一⇒茶摘み、かかし⇒金太郎、桃太郎 となり、そして数々の童謡となります。

近代日本の音楽の原点は童謡に有り
(完)



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