Volume 4
シドニー・ベシェ物語
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(その1) ジャズの巨匠
数多くの偉人
『デキシーランド・ジャズ』発展に貢献した人の数は実に多く、その中で際立った活躍をした人々だけを列挙してもその数は軽く数百人を超えてしまいます。
「Volume 3」で取り上げた19世紀(1800年代)半ばにアメリカ人の心の音楽を数多く作曲した「スティーブン・コリンズ・フォスター」のメロディーを始めとした大衆音楽の社会に、奴隷開放によって社会に進出して来た黒人の魂が加わった19世紀後半のジャズ誕生時代、今では『ジャズの父』と呼ばれているクレオールの血を持つ伝説のコルネット奏者「B(バディー)・ボールデン」そのB・ボールデンのジャズを引継ぎレコード登場で一躍世に広めた「F(フレディー)・ケパード」や『初代キング』と称されるコルネット奏者「K(キング)・オリバー」や「B(バンク)・ジョンスン」さらにオリバーから手ほどきを受け、後に『ジャズの王様』となる、これ又コルネット奏者の「L(ルイ)・アームストロング」その「ルイ」から多大な影響を受けた白人の「B(ビックス)・バイダーベック」・・・・
「数多くの偉人」   拡大
左からバディー・ボールデン、キング・オリバー、バンク・ジョンスン、ルイ・アームストロング、ビックス・バイダー・ベック
そしてその時代を共にした数多くのジャズ初期時代の開拓者の一人一人、やがて時代は20世紀、1917年(大正6年)になってそれ迄は限られた世界の人々のみに知られていたこの「ラグタイム音楽」が「ODJB」を起用して華々しく登場するレコードの時代の幕開けから「ジャズ」と呼ばれ一躍世間の脚光を浴びる時代。
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第ー黄金期
1917年
史上初のビクターレコード盤 Livery Stable Blues,18255-B
出典:ウィキペディア
その史上初のレコード録音をしSPレコード時代の幕開けを華々しく担った「ODJB/オリジナルデキシーランドジャズバンド」の面々、
狂乱の二十年代「ローリング/THE ROLLING 20'TH」に巻き起こった『デキシーランドジャズ第一黄金期」を支えた数多くのプレーヤー達。
1940年「サンフランシスコ博覧会」で「ルー・ワターズ」(ヤエバ・ブエナ・ジヤズバンド)が演奏したデキシーランドジャズが当時の若者に新鮮な感覚を与え、そこから突如巻き起こった『デキシーランドジャズ・リバイバル時代』
ここから華々しい活躍をし「デキシーランドジャズ第二黄金期」に活躍するシカゴ派の大御所「エディー・コンドン」を始めとする数多くの面々、これらの人々の活躍ぶりを一つ一つ記録する事は不可能です。
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ジャズ界の三巨匠
ジャズ史に於いて一般に広く紹介されている巨匠としては.
『ジャズの王様』「ルイ・アームストロング」
『スイングの王様』「ベニー・グッドマン」
『ジャズの侯爵』「デューク・エリントン」の御三家です。

出典:ウィキペディア
彼達の著書や文献が多数存在するのは彼等の功績そのものが如何に偉大であったかを証明する事実ですが、人々にこの三人程知られていませんがもう一人偉大なジャズの巨匠がいます。
N.O(ニュー・オーリンズ)に生まれ育ち、一生をN.Oジャズと共に過ごしたクレオール人の天才ソプラノ奏者『シドニー・ベシェ』で今回は彼のお話をしたいと思います。
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(その2) もう一人のジャズの巨匠
『シドニー・ベシェ』
Sidny Bechet(1897~1959)
十代前半迄の出来事
拡大Author:
William P. Gottlieb
出典:ウィキペディア
1897年5月14日(N.O生まれ)、既にこの物語の中で度々触れて来ました白人と黒人ニグロの混血人種「クレオール人⇒ムラート」はアフリカン・ニグロ奴隷とは違うと言う事で「南北戦争」後の奴隷開放宣言によって暫くは通常の白人と同等の扱いを受けていた時代があったのですが「ベシェ」が生まれる数年前に「奴隷開放」に猛反対の勢力が勝ち取った『ジム・クロウ制度』なる法案が可決され、白人のみが人間として優先される「有色人種差別法」が施行され、フランス系クレオールでムラートの彼は生まれながら、常に『人種差別問題』と言う壁に直面し、生涯苦難の時を過ごす事となります
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天才の誕生
彼の一家は皆音楽には寛大な心を持っていた裕福な家庭に生まれた為、ベシェは幼少時から天才的才能を発揮し、6歳の時には既に作曲をしたり、クラリネットを習い始め8歳にして伝説のコルネット吹き「フレディー・ケパード」バンドに出入りし13歳で兄のバンドでプロ入りをする。
彼のエピソードの一つに、彼がバンドにやって来ると他のプレーヤーは挙(こぞ)って演奏を止めてしまい、皆真剣に彼の演奏を聞き入ったと言う程で、彼は若くしてN.O(ニュー・オーリンズ)のバンド仲間から'町一番の即興演奏家'と評され、彼を知らない者は無し!と言う程の人気者となりました。
それ故彼はこの十三歳から半世紀、六十二歳の自分の誕生日(5月14日)にフランスの地で幕を閉じる生涯を「プロ・ミュージシャン」として歩む事になります。
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バディーボールデンのオーラ
幼少時の彼にジャズの魅力を植えつけたのは当時(二十世紀初頭)N.Oで絶大な人気を博していた『ジャズの父』、伝説のコルネット吹き「B(バディー)・ボールデン」だったのです。
彼が6歳の時に住んでいた家の近くにはあの一大歓楽街『ストーリービル』があり、そこで当時この地区の顔役(大ボス)の『トム・アンダースン』の店で常々開かれるパーティーの時に「B・ボールデン」の『ラグタイム・ジャズ・バンド』が演奏し、人気を博していたのです。
その自由な奏法で自分の感情を強く豊かに表現する『ジャズの父』ボールデンの生の演奏を目のあたりにし、ベシェはトラウマの如く強い感動と影響を受けます。
当時の「B・ボールデン」の発するオーラは物凄く、後にジャズの開祖者と呼ばれる「F(フレディー)・ケパード」「J.K(ジョー・キング)・オリバー」「B(バンク)・ジョンスン」「J(ジョニー)・ドッズ」「J(ジミー)・ヌーン」始め多くのN.Oミュージシャンは皆彼の影響を強く受けたのです。
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指導者ジョージ・パケー
ベシェも例外無く物凄いカルチャー・ショックを受け早速彼は作曲を始め、やがてクラリネットを手にし「ジョン・ロビチャウクス楽団」の名クラリネット奏者「ジョージ・パケー」から厳しく手ほどきを受けます。
この時代のこの強烈な出来事が彼の生涯を通じて評される「美しい音色」「強烈なリズム感」それに「情感溢れるフレーズ」と言う誰にも真似の出来ないサウンドを生み出すきっかけとなったと言われています。
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マリオン・クック楽団
当時のバンドマンの仕事場の多くは町のパレードや公園の音楽会、ダンスの集会や葬式等で演奏するブラスバンドが主流の時代、彼は17歳の時に「B(バンク)・ジョンスン」の紹介で町一番の人気バンド『イーグル・ブラスバンド』に参加、その後「B・ジョンスン」と共に作曲者として名高い「C(クラーレンス)・ウイリアムズ」の楽団を経てN.Oで「K(キング)・オリバー」の楽団に入りシカゴやN.Yを渡り歩きやがて「W(ウイル)・マリオン・クック」の楽団に入ります。
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イギリス公演
十代前半から既に『ストーリービル』で絶大な評価を受け名を馴せていたべシェもその時代の「人種差別法」やアメリカが第一次世界大戦に参戦する時流から1917年12月突然『ストーリービルの閉鎖』等による不況の壁は厚く、世間にアピールする機会を失った「S・ベシェ」始め全てのジャズプレーヤーにとっては苦難の時代。
しかし、『ストーリービル閉鎖』二年後の1919年6月(ベシェ22歳)彼の人生に一つの大きなチャンスが巡って来ます。
当時の白人人気バンド「ウィル・マリオン・クック」率いる「サザン・シンコペーターズ/THE SOUTHERN SYNCOPATED ORCHESTRA」のロンドン公演が決まりベシェも堂々とメンバーとして迎え入れられたのです。
(未だ世の中は白人と黒人が同時にツアー行動を共にする等考えられない時代に!)
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フィルハーモニック・ホール
イギリス リバプールのフィルハーモニック・ホール
Author:Oosoom
出典:ウィキペディア
十五日間の船酔いに苦しんだ船旅の後、ロンドン入りし、1919年6月15日クラシックの殿堂「フィルハーモニック・ホール/PHILHARMONIC, HALL」で
"譜面を全く読む知識を持ち合わせていないベシェなるクラリネット吹きがオーケストラの仕事をする、なんぞは果たして如何なものか?"
と言った大方の予測に反してベシェは見事に素晴らしい感性の即興演奏をし全ての聴衆に大感激と興奮をもたらし大反響を呼び起こします。
公演翌日の新聞に世界的指揮者のスイス人「エルンスト・アンセルメ」がこの「サザン・シンコペ一ターズ」を評して、「このバンドのクラリネット奏者は実に素晴らしい神業の持ち主だ、我々はこの人物の名をしっかりと記憶しよう、その名は "シドニー・ベシェ !"」このコンサートがきっかけとなり俄かにヨーロッパでは「ジャズブーム」が巻起こり、「ルイ・アームストロング」始め数多くの本場N.Oジャズのヨーロッパ公演が相次ぎますが、正にベシェの功績が引き金となったのは間違いのない事実です。
それから二年後ベシェは「ベニー・ペイトン」楽団でパリとN.Yを往復しています。
彼は最初のロンドン公演の想い出に到着二ヶ月後の8月 "バッキンガム宮殿" での御前演奏をしたのが特に印象深く、「自分のポケットの中に入っているお札に描かれている王様が自分の目の前にいてしかも足でリズムを刻んでいるのを見て凄く感動した!」と言っている。
更にその演奏後王様から直接あの「キャラクタリスティック・ブルース/CHARACTERISTIC⇒(特色)・BLUES」は素晴らしい演奏だったとお褒めの言葉を貰った事は一生忘れられないと語っている。
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自由奔放な私生活
1922年のシドニー・ベシェ
出典:ウィキペディア
多くの芸術家であるミュージシャンに共通するのは「自由奔放」そのもので、彼の生涯を通しての私生活に於ける女性関係も特筆に値するものだった。
アメリカ国内での有色人種差別はかなり厳しかった時代でも、ヨーロッパでは未だ黒人の存在自体が少なかった事やこの地では音楽の歴史は深くミュージシャンに対して古くから寛大な畏敬の念を持つ慣習があったのでベシェにとっては正に『水魚の交わり/(水を得た魚)』音楽に(芸術に)異性は重要な要素であり異性の存在は音楽の一部とさえ言われる程深い関係にあるのですが、この時代のアメリカでは有色(COLORED)人種の身で白人女性同伴等と言う行為はきついご法度、しかしベシェは実に自由にやっていた。
(勿論こっそりとではあるが・・・)しかし、いつも上手い話ばかりでは無くイギリスでは「タルト」と呼ばれる夜の女との戯れの最中に小さな諍(いさか)いから彼はその女性に平手打ちをし、警察に通報されて十四日間の拘留後に強制国外退去処分を受けてしまう。
結局「御前演奏」をし、王様から直接お褒めのお言葉まで貰い一躍「時の人」として「英雄」扱いを手にした彼もこの事件を境に人々から忘れ去られて行く事となる。
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ベシェに写るルイ・アームストロング
ロンドン・ツアーで滞在中のベシェに数種の楽器を撮る名手「ブラック・ペニー」が「君より上手くハイ・ソサィティーを吹く子がいるよ!」と言って来たのでベシェは直ぐに見に出かけると、そこには別のツアーでイギリスにやって来た19歳の「ルイ・アームストロング」がデキシーランドジャズの名曲「ハイ・ソサィティー/HIGHSOCIETY=上流社会」のあの有名なピッコロパートをコルネットで軽々と吹いていた。
これがベシェより三歳年下の天才「ルイ・アームストロング」と最初の出会いで、彼は「ルイ」を直ぐに気に入ってしまう。
然し同時に彼はルイから放たれる魅力と自分が表現しようとしている音楽に少なからず違いがある事に気づき、ここから生涯を通じベシェは彼を意識する様になる。
ルイとはこの後N.Oで幾度も共演したり、レコード録音を数多くし、お互いが喜びを共有していた時代がある。
しかしその後ルイが世間に受け入れられ、世界的或いは『ジャズの王様』『ズールーの王様』と大成するに連れ、ベシェは彼を(恐らく嫉妬心からかそれともライバル心?)認めなくなって行く。
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主義の違い
ルイは常々大衆の心を掴む事に寝食を惜しまず必要とあらば「道化」の役でも抵抗無く受け入れる寛大な心を持っていた。
大戦後のテレビ時代になって登場するルイは常に大きなハンカヂで彼の大きな口"ディッパー・マウス/DIPPER M0UTH"を拭う所作をして「ハロー・ドーリー」を大ヒットさせた様に彼の仕種(しぐさ)の一つ一つに大衆の心を掴む策が講じられていたのに対しべシェは全く違った音楽表現を心掛けていた。
その代表的な違いを示すものがソプラノサックス(SOPLANO SAX)と言う楽器で彼は1919年のロンドン公演の際、楽器屋に立ち寄りこの楽器を手にいれる。
この楽器は正に彼の性格にぴったりで長く真っ直ぐに伸びた銀色に光輝ぐ円鐘形のこの楽器(SOPRANO SAXには先の曲がったCURVED TYPEもある)を彼は手にした時点でそれ迄下向きにして吹くスタイルが常識のクラリネットの吹き方を全く変え、水平より更に30度程上に突き上げ、さも「俺の話を聞け!」と言わんばかりの強烈な自分のスタイルを打ち出したのです。
ソプラノサックスと言う楽器の持つ特性および伝統的役割のお陰で彼の演奏は音量面でも技量面でも一段と凄さを増し『ベシェ=ソプラノサックス奏者』としての道程がここから始まる。
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ソプラノサックスの登場!
彼が1920年(大正9年)N.Yで「C(クラーレンス)・ウィリムス」の『ブルー・ファイブ楽団』に参加した時の録音がソプラノサックスでの最初の録音。
「ルイ」はどんなに速いテンポでも吹ける技量を充分持ち合わせていたがその曲の持つ旋律の美しさを強調する事に専念していたのでスピードを「ウリ」にはしなかった。
それに比してベシェはこの楽器とトランペットとの大きな違いである四オクターブ以上の広い音域の中を自由に動ける魅力を駆使し、リード楽器奏者の基本と言える速いテンポの演奏を追求し完成させた。
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ヨーロッパ巡業
拡大バナナスカートのジョセフィン・ベーカー
出典:ウィキペディア
1925年ジョセフィン・ベーカー主役の「ブラック・レヴュー・ショー」の一行と共にヨーロッパツァーに参加、その後彼自身は17人編成のバンドを結成し各地を点々と放浪1926年にはロシアやドイツにも出向いた。
六年後の1931年帰米し「ノーブル・シッスル」楽団に入りシカゴを中心として活動。
ジャズ史上最大出来事の一つ『1917年のSPレコード登場』が引き起こした『デキシーランドジャズ第一黄金期』の初期段階にはイギリス公演に出向き、1920年代あの狂乱のローリング20THで巻き起こった「チャールストン全盛』のデキシー第一黄金期の真っ只中の1925年から6年間もの長き間のヨーロッパ放浪旅行をしたりでアメリカでの彼は殆ど無名の存在になってしまった。
一方「ルイ・アームストロング」「ジェリー・ロール・モートン」「ベッシー・スミス」「デューク・エリントン」と言った数多くの人々が有名になるが、それも三十年代後半に入ると「べニー・グッドマン」を筆頭にした「スイング』時代到来により多くのデキシー・ミュージシャンにとっては実に辛い「暗黒」時代に突入する。
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バンドマン受難の時代
この時代はあのクラリネットの大御所「エドモンド・ホール」が郵便配達の仕事をしたり、あの白人コルネット奏者の大御所「ワイルド・ビル・デヴィスン」が週三日の仕事でギャラがたったの15ドル(¥5,400.-?)だっとか、トロンボーンの大御所「キッド・オーリー」はハワイでバナナ農園のバイトをやっていたと言う時代でべシェも音楽での実入りある仕事は無く不慣れなアイロン掛けや繕い仕事をし自ら称していた『貧しき仕立屋です!』の看板を掲げていた。
近所には同じ様に不慣れな靴磨き屋の「トミー・ラドニア」他のミュージシャン仲間がいて仕事が終わると店の裏に集い好きなデキシーランドジャズを演奏していた。
ベシェはこの当時を振り返り、「あの頃はそれが一番楽しかったよ」と語っている。
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デキシーリバイバル到来
サンフランシスコ博会場風景
Author:Dsbiehl
出典:ウィキメディア・コモンズ
1940年サンフランシスコ万博会場で「ルー・ワターズ」率いる「ヤエバ・バエナ・ジャズバンド」が演奏したトラッドジャズが「ターク・マーフィー」他の学生を中心とした若者に火がつき突如「デキシーランドジャズ」の「リバイバル・ブーム」が巻き起こりそこから『デキシーランドジャズの第二黄金期』が始まります。
バンドマン苦難の時代が終わり、ベシェの所にもビクターから珍しい多重録音の仕事が入ってきます。
1941年4月(12月8日真珠湾攻撃で太平洋戦争開戦)ビクター・スタジオで彼は.ピアノ、ソプラノ、ドラム、テナー、ベースそれにチュ一バと言う六種の楽器をたった一人で演奏し録音を完成している。
この風変わりな録音風景を当時の新聞社が取り上げた為大いに話題を呼びべシェはこの時バンドリーダーとしてのギャラも含む7人分のギャラを貰って大満足、(このサウンドは今でも残っています。)
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破格の待遇
1943年ベシェはニューヨーク州ホワイト・マウンテンで週に一度破格のギャラ百ドル(3.6万円?)で演奏活動をしていた。
この黒人演奏活動が禁止されていた上流白人社会のリゾート地で彼が演奏活動をしていたと云うのは特筆すべき事で、いかに彼が誰もが認める「ルイ・アームストロング」や「デューク・エリントン」同様ジャズの巨匠の一人として認めらていたかを実証する事である。
勿論左翼系の革新的人々は皆黒人がどうどうと演奏活動している事を知ると直ぐひっ捕まえ逮捕する事に躍起になっていたので大っぴらな活動ではなかったがバンド仲間が常にカバーして、と言う様に音楽仲間が如何に彼を尊敬していたかを伺い知る事が出来る。
当時を知るプレーヤーはべシェは通常では出来ない四オクターブ以上の音域を軽々と吹きこなす、恐らく彼は口の中で少しつつリードをずらして噛んでいたのではと言う噂がしきりで周りのプレーヤーの誰もが「あんな音はありえない!」と言っていた。
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タウンホール・コンサートの出来事
世界大戦も終わった1946年N.YのD・J(ディスク・ジョッカー)が企画した当時人気絶頂の『ジャズの神様』「ルイ・アームストロング」と「シドニー・ベシェ」の二大ジャズプレーヤー共演コンサートの話が進みN.Yの『タウンホール』での開催が決定、前評判共々人気が盛り上がり当日の会場は長蛇の列。
しかしいざオープニングの時間になってもべシェの姿が見えず会場内、とりわけ関係者は皆パニック状態に陥る。
結局この夜の会場にベシェの姿は無かった。
翌日になって親しい友人がベシェにその理由を尋ねると「地下鉄で眠り込んでしまい気付いた時は真夜中だったんだ!」と答えたと言う。
勿論誰もベシェのこの言葉を信用せず「彼はプライドが高くとても年下で人気のあるルイと共演なんぞまっぴら!」と言う気持ちを持っているんだと言う噂が先行した。
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頑(かたく)なな自己主張!
ある人は「何と頑固で融通の利かない男だ!」と非難するし、ある入は「何と自分の主義主張をルイ・アームストロングをソデにして迄も貫く凄い人物だ!」と高い評価をする。
いずれにせよこれ以降彼のコンサート出演の仕事は激減し、彼は生活に支障をきたす羽目になる。
それでも1944年から続けて1949年迄の六年間に彼は数多くのレコーディングをし、多くの素隣らしいサイドメンとの出会いをしている。
特筆すべき事は『ブルーノート』社でここでレコーディング・レリースされ二十数枚に達した「シドニー・ベシェとブルーノートジャズメン/SYDNEY BECHET'S WITH BLUE NOTE JAZZMEN」と言うシリーズはそのどれもが際立っている。
特に1949年にレリースされた「べシェとワイルド・ビル/SIDNEY BECHET'S WITH "WILD BILL DAVISON" (BLP2001)」の一枚はジャズレコード史に於いての最高傑作の一つに位置する作品となった。

黒人向けジャズを数多くレリースし、ジャズの第一黄金期の礎を作った「OKレコード」、
1924年10月17日発売の一枚
デキシーランドジャズの名曲を数多く作曲した「クラーレンズ・ウィリアムス」のブルー・ファィプの録音に「ルイ」と「ベシェ」の名前が見られる。
クラーレンス・ウィリアムス ブルー・ファイブ
ルイ・アームストロング   (コルネット)
チャーリー・アービス   (トロンボーン)
シドニー・ベシェ   (ソプラノサックス)
クラーレンス・ウィリアムス   (ピアノ)
バデイー・クリスチャン   (ベース)
勿論これは78回転のSP盤でこのメンバーで5~6枚レリ一スされているし、「ルイjと「ベシェ」はOK社以外のレーベルでも数多く共演している。

「ベシェ」55歳、1952年のパリでのライブ盤
10インチLPのジャケット、「ベシェ」はこの一年前にアンティーべで町を挙げての結婚をし、その時の町の思い出を描いた「アンティーベの通りで」を作曲、このレコードで演奏してこの曲は正にデキシーランドジャズの名曲として仲間入りする。
このLPの全てが円熟した「ベシェ」を知る名盤
ブルーノート社が取り組んだ「ベシェシリーズ」はLP7000がら始まり、このLPがその最後のLP7024、
このシリーズ最初の1949年の7001番がレコード史に輝く名鑑と言われる「S.BECHET WITH BLUE NOTE JAZZMEN WITH "WILD" BILL DAVISON」です。
出典:45worlds
これはパリの「オランピア劇場」で「クロード・ルター」バンドで演奏するスナップで、
「VOGUE LPPN-1017」のジャケットに使われた。
上のブルーノー卜盤より2年後で「ベシェ」は既にフランス移住を決意し、「C・ルター」と共にニューオーリンズジャズ普及に取り組み正に『脂の乗つた』「べシェ」の演奏が堪能出来る名盤。
このLPの10曲の内の5曲が「ベシェ」のオリジナル曲「C・ルター」も素晴らしい。
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デキシーランドジャズの名盤
拡大ニューヨークでのエディー・コンドン Author:William P. Gottlieb
出典:ウィキペディア
デキシージャズレコードの中の最高傑作と言われる作品は実に数多くその時代その時代で数多くあり特定する事は到底不可能ですが、日本の戦後の数多くのジャズファンを虜にした一枚に挙げられているのが「シカゴ派」のデキシー界の大ボス!.「E(エデイー)・コンドン/EDDIE CONDON」その彼と生涯を共にしたデキシードラマーの名手「G(ジョージ)・ウェットリング/GEORGE WETTLING」がリーダーのコロンビアからレリースされた一枚、ウェットリングは抽象画家でもあり、序々に彼の名が世間に台頭して来たのでアメリカの有名大衆誌「コリアーズ/COLLIARS」社が"絵描き"としての特集記事」掲載を決定、急遽彼の絵のモデルとして集められた仲間達が「コリアーズ社」に集い、その際記念録音が為されたのが「G・ウェットリング・オクテット(八重奏団)」の「コリアーズ・クランベィク/COLLIARS CLAMBAKE」から始まる名演奏が網羅されている10インチ盤です。
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デキシー・ドラマーG・ウェットリング
拡大Author:William P. Gottlieb
出典:ウィキペディア
この盤のどの曲もどのフレーズも、どのプレーヤーも全てが完壁でこれぞ⇒シカゴスタイルのデキシーランドジャズの最高傑作と言っても過言では無いのでは、と戦後の名ジャズ解説者「河野隆次」さん、ジャズ評論家の「油井正一」さん、そして日本コロンビアで「鈴木章治とリズムエース」の「鈴懸けの道」をレリースしたり、多くのデキシー愛好者を生み出した傑作LP盤「アイ・ライク・デキシー」のレコードを世にレリースした「石原康行」さん他多くの人がこの一枚のレコードを絶賛しています。
右の写真はWilliam P. Gottlieb撮影のErnie Caceres, Bobby Hackett, Freddie Ohms, and George Wettling, Nick's (Gottlieb 03631) です。
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国宝!ワイルド・ビル・デヴィスン
拡大Author:William P. Gottlieb
出典:ウィキペディア
この「G・ウェッリング八重奏団/GEORGE WETTLING OCTET」で名演奏をリードしているコルネット奏者は、ジャズ愛好家第一人者金子昭一氏曰く「ジャズ界の国宝!」「白人のルイ!」とさえ言われた「ワイルド・ビル・デヴィスン/WILD "BILL" DAVISON」です。
彼は晩年、奥さんの「アン」さんを連れ、数回日本にやって来ました。
その時「ベシェ」について尋ねられると「私は、私の最も大事な青春時代に実に数多くの事をベシェから学んだ」と語っています。
右の写真はWilliam P. Gottlieb撮影の1946年6月ニューヨーク市でのEddie Condon'sでの演奏です。
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ヨーロッパ永住を決意する過程
1949年ベシェ(52歳)「チャーリー・パーカー/CHARLEY PARKER(ALTOSAX)」「マイルス・デイビス/MILES DAVIS(TRUMPET)」等の時のジャズ界の大物が多数参加のパリで開催されたジャズ・フェスティバルにべシェは『フランス・ホット・五重奏団/FRENCH HOT QUINTET』のスペシャルゲストとして招かれ再びヨーロッパに足を運ぶ。
この盛大なフェスティバルには1940年代初頭アメリカで突如巻き起こった『デキシーランドジャズ・リバイバル』にいち早く反応したフランスの「クロード・ルター/CLOUDE LUTER(CLARINET)1927年生まれ」、オーストラリアからは「グラハム・ベル/GRAHAM BELL」、イギリスの「ハンフリー・リッテルトン」「ケン・コリアーズ」「クリス・バーバー」を始めとする著名なアメリカ以外のデキシーランドジャズミュージシャンが多数参加。
ここでべシェはアメリカでは味わう事の無い暖かい歓迎、もてなしを受け好きな音楽活動を続けて行きたい一心でフランスを自分の祖国として、この日からの生涯を彼の面倒見をして繰れる「C(クロード)・ルター」と共に新しい地での生活基盤を構築し永住する気持ちを持つ様になる。
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プティット・フルール(小さな花)
1951年自身のフランス永住決意の気持ちを愛する人と共に一輪の花にたとえ、ようやく芽生えた一途な気持ちを曲にしたのが生涯二百数曲を書いた彼の作曲作品の中の最大のヒット作となった『小さな花/PETITE FLEUR』
当初この曲は大して人々の関心を呼ばなかったが八年も経った1959年になって世界中でこの曲を知らない人はいない、と言う程の大ヒットとなった。
しかし彼はこの大ヒットの兆しすら知る事なく1959年自分の誕生日の5月14日に帰らぬ人なった。
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クロード・ルターとオランピア劇場

拡大パリの『オランピア劇場』 Author:KoS
出典:ウィキペディア
このフランス永住を決意した時代の録音の多くは今でも聴く事が出来る。
1954年にフランスを代表する音楽の殿堂、パリの『オランピア劇場』での「C(クロード)・ルター」との録音では円熟期のべシェが存分に聴かれる。
C・ルターはべシェを自分の師匠と崇めていたので多くの教えをベシェから学び取ったが周りの仲間にとっては、ともかく厳しい人でとても近寄り難く彼等がベシェにつけた仇名は何と『拷問人!』それでも不思議な事は暫くつき合っていると"一途で真面目な性格"の彼の姿が見えて来てだんだん人が集まって来る。
彼の放つ一言一言は時が経つにつれ序々に理解出来、皆感謝の気持ちを持つ様になったと言う。
彼の一言の一つ、
『大切な事は曲目ではなく、
どう演奏するかと言う事』
ルターはべシェに出会う前に既にフランスでは既に大成していた名クラリネット奏者でアメリカのレコード会社からも引き合いがある程の大物だったが彼がベシェと出逢った時にべシェのマウスピースのくわえ方が自分とは全く違うので大ショックを受けたと言う。
結局彼はクラリネットの吹き方を全て、一からの出直しとなる「ハメ」になったがそれにより演奏の一つ一つに力強さが加わり更に軽快でシャープな音が得られる事を知った時には大変感動しベシェに対し感謝の気持ちは一生変わらないと語っている。
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変わらぬ自由奔放な私生活
アメリカでは得られなかった彼の才能の全てを自由に伸ばす事が出来るこの新天地で五十代を迎え脂の乗つたべシェは音楽関係の事業面でも大いに成功し彼の住んでいる自宅はお城の様な所でフランスでは俳優の「モーリス・シュバリエ」同様「シドニー・ベシェ」の名を知らない人はいない程の有名人になっていた。
生活の方が安定すると当然の如く彼の女性関係の問題が頭を持ち上げて来る。
彼の女好きはこれ又天性のもので二股を掛ける事等は日常茶飯事、常にやっかいな問題を引き起こしていた。
その夜の顧客の中にお気に入りを見つけると突然「ラブ・フォー・セール/LOVE FOR SALE」やお得意のスロー・バラードで料理を開始、コンサート終了後には腕を組んで会場を後にする、と言った光景も屡々見られた。
バンド仲間にとっては実に「イヤな奴」でともかく彼等の女友達と直ぐに仲良くなりたがる。
勿論滅多に上手くいく事はなかったがそんな時の彼は「腹イセ」にステージの始まり時間をずらしたりする等の「イジワル」をして周りを手こずらせ評判はすこぶる悪かった。
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アンティーべの町での祭典
アンティーベの位置
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当時話題のフランス有名女優「タルーラ」と一時噂話が持ち上がったりもしたが1951年54歳になって25年振りに再会したドイツ系白人「エリザベス・ジーグラー」と結婚、フランスきっての有名人、そしてジャズの歴史的名プレーヤーの結婚と言う事で「C(クロード)・ルター」や時の市長始め多くの人々が動き地中海沿岸の美しい町、「アンティーべ」の町で総力を挙げての盛大な結婚披露宴計画が浮上、折しもジャズの本場N.O市から「べシェ」に対して初代『ズールーの王様』「ルイ・アームストロング」に続く偉大な二代目の『ズールーの王様』の就任依頼が舞い込んで来た。
彼は新妻リズに相談し快諾の返事を打ち出したので『結婚披露』と『ズールーの王様』就任記念と言う二つの御旗の基にこの日は本場N.Oで毎年開催される盛大な世界的祭典の一つ『マルディグラ祭り』と同じ様に、パレード行進等も全てN.Oと同じ様にしてアンティーべの町で再現!と言う一大祭典が催された。
当日は朝からどの町角にも"可愛い子ちゃん"が立ち並び道行く人々にワインを注ぎ一日中町はパレード、パレードと酔いしれる。
この時ベシェが書き上げたデキシーの名曲「アンティーベの通りで/DAN LES RUES D' ANTIVES」はほのかにフランスの香りが漂う素晴らしい曲。
「べシェ」はこの日を「生涯最良の日」と語るが、C・ルター始めアンティーべの町のパレード主催関係者の殆どはその日に費やした費用清算にその後長い期間苦しむ羽目となった。
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ベシェの一言
地中海アンティーべの「ベシェ」の偉業を讃へる銅像
出典:ウィキペディア
リズと結婚し1954年(ベシェ57歳)息子「ダニエル」も誕生(現在フランス在住)全ての物を手にする事が出来た上に子供までいた美人の「ジャクリーン」とも宜しくやっていたと言う「おマケ」迄手にしていたが、
ここでベシェの一言、
『曲を理解する為にはその曲を演奏して只好きになれば良い!』
『自分の人生は音楽が全て、常に自分が良いと思う場所で演奏して来た』
『音楽と皆のお陰で自分の生きる意味を見出せた』
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晩年のシドニー・べシェ
音楽を愛し続ける為に故郷N.Oの町、故郷アメリカと言う国を去りフランスの地で全ての面で成功を手に入れた「ベシェ」だったが彼の心の中には常に『望郷の念』があった。
40年代に入り、突然デキシーリバイバルが起こった時は彼は真剣にN.Oジャズに於ける自分の為せる活動を模索し続けていた。
五十年代にN.O市の依頼で二代目『ズールーの王様』就任依頼の話が舞い込んで来た時は結婚式と重なった事もあり常に周りの人々にこの日が「生涯最良の日」と話をしていた。
良くアメリカからの友達やジャズ仲間がベシェに「何で今だにフランスにいるのか?今は時代が大きく変わりアメリカでも皆貴方を待っているよ!」と言うと、必ずベシェは「きっと私の祖父がここにいろって言ってるんだよっ、何故なら祖父の故郷はアフリカでここはアメリカより遥かにそこに近いからね!」と言い続けていた。
そんな「ベシェ」が十二歳年上の最愛の兄トロンボーン奏者だった「ダニエル」の死を知らされた時も涙しながら「俺の祖国はフランスさっ!」と言ってN.Oでの葬儀に参列する事は無かった。
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真の帰国願望
1959年やがて彼もガンに冒され手首も首も腕もヤセ細り骨と皮だけとなってしまったそんな彼に友人が「何か望む事は?」と問いかけた時に彼が発した一言、
「I WANNA' GO HOME, TAKE ME HOME!」
⇒ 故郷に帰りたい、連れてって!
彼が望む物全てを手にする事が出来たフランス、そこに永住する決意をしたフランスその人生最後となる六十二歳の誕生日を迎えた彼が今際(いまわ)の際(きわ)で望んだ事は、
望郷のアメリカに帰りたい!
それはアメリカ南部ルイジアナ州N.O市のあの『ストーリービル』近くの彼が生まれ育った家だった。

4「Vol4.シドニー・ベシェ物語」」はここまで
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