そして解った事は、
☆この地では綿花は容易に入手出来たが「麻」はアジアからの貴重品で当時は非帝に希少価値の高い大変高価な物だった。
☆N.O地区は湿地帯なので人々は常に蝿や、蚊、ゴキブリ、鼠等の害に悩まされている。
☆当時の上流社会、金持ちの間ではこの高級品の「蚊帳」を持つ事がステータスシンボルとして流行り、アジアの国々と交流していた船乗りはどんどん運んで来た。
☆ここの蚊帳の確かな出生国は解らなかったがアジアからである事だけな間違い無い。
そして購入価格の記載欄を見て驚いたのはこの「蚊帳」のお値段は現在価格に換算すると約一千八百万円!(何張かの記録は無かったが)この富豪の自分の娘の可愛がり方が想像出来る、しかし私には壁に掛かっていた娘の肖像画はさして可愛く思えなかった、きっと私の目の調子が悪かったのでは・・・・・
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鎖国も関係無く!
この様にこの時代のN.Oは既に世界中のどの港とも直結していて「陶器」が欲しければ中国から、何々が欲しければどこどこの国からと「お金」さえ払えば何でも自由に手に入る現代社会と同じ構図が既に出来上がっていた事がこの「蚊帳」一つから察する事が出来ます。
「仮に、その国が身勝手な鎖国をかたくなにしていようと、いまいと関係無く、」
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家族愛を大切にするフランス人農場主
娘さんの部屋とは別の部屋が書生奴隷(ムラート⇒クレオール人)の部屋と知りこれ又、びっくり、ここではフランス人農場主の感覚がしっかりと存在していました。
一般にこの地区のフランス人農場主はカトリック系の宗教に属し、奴隷と雖もその家族を大切にし愛情を注いでいました。
園内の200人以上の黒人奴隷の中には、農場主が惚れ込んでしまう程の素晴らしい娘もいて、そこから当然情が乗り移りそんな美しい若い娘に子供を産ませ我が子として育てるバックグラウンドがここに存在しこの地で生まれた白人と黒人の混血人を一般には「クレオール人」と称していたのですが、これらの農場主はこの子供達は"アフリカ黒人"とも"クレオール人"とも違う"ムラート"と称して、しっかり学問の機会等を与えそれを実践していたのが正にこの「書生部屋」であり、ここで学問を身につけた多くの若者が後のN.Oの町作りに大いに役立った事を知り実に感心させられた。
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黒人奴隷の扱い
奴隷に対する感覚の違いには大きな歴史の違いがあり、実に複雑な要素がからんでいます。
この時代の白人とはフランス人、ポルトガル人、イギリス人が多かったのですがこの地が「アメリカ合衆国」の一部となり、当然彼等はアメリカ人となりその中から多くの農場主が誕生しますが実際の奴隷に対する扱いには大きな違いがありました。
「フランス系」農場主の多くはカトリック教が主体で、その教えは"結婚は神聖な物"で例えそれが黒人奴隷であろうともその部分の否定はしなかった。
「スペインやポルトガル系」の農場主の多くは労働については支配したが心の束縛はしなかった。
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動物扱い
奴隷に対し最悪なのは"一般アメリカ人"と称される多数派の「イギリス系」の人としての心等一切無い「プロテスタント教」がもたらす物の考え方で、(ヨーロッパでは既に古くから奴隷制度が存在していた)「奴隷とは道徳的に弁護の余地の無い堕落した人間!」と、全ての宗教共通の只手前勝手な自己中心、自己美化、自己評価、自己判断で凝り固まった実にアホで間抜けで間違いだらけの発想で「白人の我々だけが優れた入間!」と人としての心等全く無い最低最悪な解釈をし"奴隷とは肉体だけで無く精神さえも支配しなければ生きて行けない劣った人聞!"と決めつけ日々どうどうと実践していたのです。
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歴史は繰り返す
少し話が脱線しますが、この時代から2世紀後の21世紀、2003年に国連安保理の採択を一方的に無視して中近東諸国に戦争を強硬し続けるアメリカ、それに伴う各国の見解の相違で特に注目されるのがフランス、イギリス、スペインの主張でご存知の通り、戦争を強硬するアメリカにフランスは非難の立場に廻り、イギリスとスペインは何となくアメリカに同調と言った姿勢が見られますが、ここではそれより2世紀以前のアメリカ国内で起きていた奴隷に対する感覚対応と全く同じ構図がくり返されているのが良く解ります。(正に歴史はくり返す)
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白人讃歌
1712年から始まった「奴隷貿易で」アフリカから強引に連れて来られN.Oの町の中心の悪名高い「奴隷市場」でムチで打たれ売買され、全米各地に連れて行かれた数多くの奴隷達に対して当時の白人社会は彼等に何一つ同情すると言った気持ち等は一欠片(かけら)も見られませんでした。
ミンストレル作曲家の「ジェームズ・ブラント/JAMES BRANDT(1854~1911)」が南北戦争以前に書いた「懐かしのバージニア/CARRY ME BACK TO OLD VIRGINIA」は誰もが知っている美しい曲ですが、この曲のテ一マである年老いた黒人奴隷が「私の故郷バージニアに」と言うくだりのバージニア讃歌的なこの曲は白人の身勝手な思い上がり発想であって、黒人の本当の心の故郷は無理やり連れて来られた異郷の地の「バージニア」なんかでは無く彼等の故郷はいつでも夢に見る広々としたアフリカの大地だったのです。
然し、当時はこの曲の美しい旋律故大ヒットしますが黒人にとってこれは耐え難い事で今の時代でも彼等の前でこの曲を口にするのはご法度です。
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ビックス・バイダーベック
拡大B・バイダーベック
出典:ウィキペディア
1931年ジャズ史上最大の天才白人コルネット奏者、若く(28歳)してにの世を去った「ビックス・バイダーベック/LEON BIX BEIDERBECK (1903~1931)」のヒット曲の一つに「バージニアのお家に帰ろう/I'M COMIN' VIRGINIA」と言うのがありますがこちらは時代が変わり奴隷の子孫も既に四代目となり、心の中に自分が生まれ育った「バージニア」を本当の故郷としていた黒人も数多くプラントの作曲した「CARRY ME BACK…」とは違ってこの曲は多くの黒人にも理解され愛されたのです。
バイダーベックはこの曲をヒットさせた事で黒人演奏家からも高い評価を得、ジャズプレーヤーやジャズファンを数多く作り恐らく彼は最初で最後の「黒人プレーヤーさえもが模範とした白人ジャズプレーヤー」として後世に語り継がれています。
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奴隷の運命
18世紀初頭N.Oで始まり全米各地に連れて行かれた数多くの黒人奴隷初期世代の"真"の境遇については皆さん既にご存じの通り全てが想像を絶する苛酷で悲惨そのものだったのです。
(何しろ人として認められていなかったのですから!)筆者がたまたま立ち寄ったプランテーションのフランス人農場主は「カトリック教」を大切にしていたのでこんな心暖まる光景に巡り会えたと安易に思っていたのですが、アメリカ社会の人種差別問題は実に根深くそんな表向きに写る光景と内側に潜む現実には大きな違いがある事を後になって思い知らされます。
この強烈な「人種差別」が為されている社会で一部のカトリック教の人々が自分達の愛情を注ぎ育てた混血子孫「クレオール人」やその後の「ムラート人」は一般の「アフリカン・ニグロ奴隷」とは全く違うと当時の社会に強硬に訴え、主張したのですが、多数派のプロテスタント教の人々が主張する "唯一、白人のみが文明人で他の全ての有色人種は明らかに劣った人種" と決め付け南北戦争後解放された筈の「奴隷解放」も十数年後の1877年には政治の裏取引で悪名高い「ジム・クロウ制度(ミンス卜レル・ショーで最初にヒットした題材に登場の主人公の名前)と呼ばれる"有色人種差別法"が成立し、その日から「黒人」も「クレオール人」も「ムラート人」そしてアジア人も皆、苛酷で悲惨な人生を歩かされる事となります。
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黒人を庇(かば)う白人
近年のアメリカでは白人社会の人種差別が実に巧妙に仕細まれていて例えば白人大統領がテレビ等に登場する表向きでは必ず「大統領」の傍らに"みえみえ"の黒人を配列し、さもアメリカ社会には人種差別問題はまるで無く、問題は皆解決したかの様に装っていながら、その裏ではこの問題は「奴隷解放」以前と何等一つも変わっていないのが現実だとそれらの行為を暴露し始め、話題になっている白人アメリカ人も最近は多くなって来ましたが,・・・・・
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黒人に写るフォスターの曲
フォスターの名曲の一つ「主人は冷たき土の中/MASSA'S IN DE COLD COLD GROUND」は通常の人としての心を持つ農場主の下で働かされていた奴隷が優しく思いやりの
あるご主入を慕う光景を美しく描いたメロディーだと思っていましたが・・・、私の見たプランテーションの「書生部屋」にはこの時代でも宗教から離れ少しは人としての心を持って黒人奴隷に気を配る白人農場主もいたんだ!と。
手前勝手に思っていましたが、"どちらも白人社会を正当化する為の巧妙な『やらせ』"であって「この国の人種差別の歴史は昔から何一つ変わってないんだ!」と帰りの車の中で、白人アメリカ人の私の友人が呟いていました。 その彼が「これは事実だよ!」と私にサゼッション(忠告)してくれたのが次の一章、【何れにせよ白人にとって黒人は只々奴隷!この国の白人は巧妙に苛酷な虐げを刻み込んでいるだけ!】
ここの下りは「宗教」と「人種差別」と言う白人社会では最も危険な'タブー"領域でこれ以上は立ち入る事が出来ません。
どうぞ皆様補足してお読み下さい。
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黒人扱隷とゲイ社会
最初の方でお話した数ある農場主の中には奴隷の家族構成に気配りする人や屈強な男性奴隷に女性をあてがう政策等に気を配る人もいたのですが、殆ど全ての農場主に共通していたのは己の収益⇒(銭)を権保する為の労働力として奴隷を買いこみ酷使するばかり、そこには相手の事や思いやり等銭以外の考えは全くありません。
遠いアフリカから鎖の足かせをつけられ劣悪な環境の暗い船底に長旅でN.Oの港に着く前に立ち寄る西インド諸島方面で売られて行った数多くの、(推定で600万人を超えると言われている)奴隷達の多くは労働力確保の男性だけでしたので彼等の社会ではブーズー教と共に「ゲイ」が広まったのです。
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黄色い旗
N.Oの繁華街「F(フレンチ)・クゥオーター」界隈を歩いてちょっと注意して見ると実に多くの「ゲイ」を誇示する黄色い旗を掲げた店がありますが、西インド諸島出身の多くのニグロが経営している店が多いのです。 一握りのカトリック教農場主以外の農場に売られて行った奴隷や只銭を掻き集める事に狂っている「アメリカン・ドリーム」とか言う訳の分からない身勝手な白人の御旗の基に只々「銭と名声」だけに心を奪われる心無い北部のケンタッキーやバージニア州に多いアメリカ人気質丸出しのプロテスタント系農場主や、フランス人と雖(いえど)も何よりも「只目先の銭儲け」だけに終始する農場主達の奴隷への対応は想像を絶する苛酷で陰惨なものだったのです。
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貴方がそこにいたら?
こんな下らない身勝手な事をぐたぐた述べて、これでは全ての宗教家の皆さん、プロテスタント教の皆さん、西インド諸島の男性他、多くの読者からお叱りを受けると思われますが、決してその国の人を蔑視したり、その時代の出来事を非難しているのではありません。 因みに、この時代この社会環境下で貴方がそこにいたら果たして皆さんは「黒人奴隷」とどの様に接していたでしょうか?
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ケンタッキーの我が家
フォスターのもう一つの名曲「ケンタッキーの我が家/MY OLD KENTUCKY HOME」の中の「OH!WEEP NO MORE MY LADY!」と言うくだりから、ここの農場主がアメリカン・
ドリーマー病に冒された「銭儲け人間」だったのが想像出来ます。
フォスターは「もう、お嬢さん!泣かないで!」と歌詞を書いていますが深く入るとその家のお手伝いさんとして買われて来た黒人奴隷の女の子がそそうをしたり失敗する度に厳しい「ムチ打ち」をされお仕置きされる心無い「銭儲け社会」の現実の光景を、あの美しいメロディーを使って世に訴えていたのですが、"この問題の奥は実に深く"・・・です。 いづれにせよ殆どの黒人がフォスターの曲を表面的には喜べない理由がここにも潜んでいるのです。 デキシー目次ページトップ
(その3) フレンチ・クゥオーター
空港での歓迎演奏
拡大(2008年撮影) ルイ・アームストロング国際空港 Author:Flickr photographer Dieter Karner
出典:ウィキメディア・コモンズ
今回のN.O旅行は実に素晴らしいの一言、東京浅草の「おかみさん会」会長の冨永照子さんが突然「N.Oに一緒に行かないか?」と言うので喜んで同行、アトランタ経曲でN.Oの「ルイ・アームストロング空港」に到着し二人が機外に一歩、足を踏み出したら突然「聖者の行進」の生演奏が始まり、さすがここはN.O!と感心しながら前を見て驚いたのはこの「WHEN THE SAINTS GO MARCHIN' lNN」の生演奏をしていたのが何とおかみさんが、毎年夏に浅草公会堂での公演始め日本全国ツアーをするあのジャズの聖地「プリザベ
ーション(保存)・ホール」の大御所、トランペッターの「J(ジョン)・ブルーニアス」さんが彼の「N.Oオールスターズ」の仲間達と共にやって来ての歓迎演奏、到着ロビーから駐車場迄の長い距離をパレードし、ご機嫌な今回の旅の幕は華々しく上がった。
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クレオール人の心
こんな素晴らしいパレ一ドに酔っている中でここは明らかに日本と違うなと感じたのは空港内の誰もが皆陽気にリズムに合わせて踊り出し、何と空港職員さえも皆楽しみながらこの生演奏を満喫しながら踊りに加わって来てここは正にジャズの故郷N.Oなんだなとはっきりと感じる事が出来た。
これは後で聞いた話で、今回この歓迎演奏を実施する為の空港への許可申請書類はハンパな量では無かったと言う事で「本当のクレオール人」J(ジョン)・ブル一二ァスさんの心暖かさに脱帽。
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最初の入植者
「キャナル・ストリート/CANAL St」(南北)「ランパート・ストリート/RAMPART St」(東西)「エスペランド・アベニュー/ESPERANDO・AVENUE」(南北)それにN.Oの象徴でもある「ミシシッピー河」(東西)で囲まれた四角い一帯がジャズで溢れる大繁華街『F(フレンチ)・クゥオーター』全ての通りには一つ一つに物語が存在し由緒あるネーミング(名前)がついています。
私が宿泊したホテルの直ぐ近くには「IBERVILLE・St(アーヴァビル)」と「BIENVILLE・St(ヴィエンビル)」と言う二つのストリートがあり、1700年初頭(18世紀初頭)兄の「アーヴァビル」がミシシッピー河から小高い高台のこの地を見つけ小さなフランス植民地を設けた所からN.Oの町の歴史が始まり弟の「ヴィエンビル」と共にこの兄弟二人が町作りに大きく貢献、ここの通りに彼等の名が残されている事を知る。
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ブレナンで朝食を! (BREAKFAST AT BRENNAN'S)
拡大ロイヤルストリートのブレナンレストラン Photo by Infrogmation
出典:ウィキペディア
骨董品店や土産物店が軒を連ねる「ロイヤル・ストリート/ROYAL St」の古き良き南部を忍ばせる「OLD SOUTH」の料理で有名な"ブレナン"にN.O在住三十年以上のミツコさんと冨永おかみさんの三人で朝食をしに出向いた。
19世紀初頭からこの店のお薦めは卵料理でこの地の建物の特色である広い中庭を持つ石畳の床を一歩一歩踏みしめ奥へと進む、壁には1800年代物のランプの照明器具、そして当時の家具がそのまま残っていて19世紀初頭へタイムスリップの感じがする。
オードリー・ヘプバーン主演で有名になったハリウッド映画の傑作「ティファニーで朝食を」は日本でも有名ですが、この「どこどこで朝食を」と言うのはここの「ブレナンで朝食を」が源で、当時この店の直ぐ向かいに悪名高い「奴隷市場」がありミシシッピー河14州にまたがる綿花畑農場主は奴隷の買い付けの度にこの地を訪れ、その前後には必ずこの店で普段は余り口にする事の無い卵をふんだんに使った美味しいフランス料理を食べながら「おらが国自慢」とあらゆる情報交換をする、そんな社交の場としてこの店が人々に知られていったのです。
つまりここで食事が出来る人とは一端(いっぱし)の金持ちの農場主である証だったのです。
我々を充分楽しませてくれたここの朝食のセット料金は一人$35.00チップを含めると、お一人約五千円!勿論この支払いは冨永おかみさんが払ってくれた。 (ごちそう様)
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小泉八雲とブーズー教
拡大映画「欲望と言う名の電車」に登場したストリ一トカー Author:Robert Kaufmann
出典:ウィキペディア
N.Oと言えばテネシー・ウイリアムズの小説「欲望と言う名の電車」が有名ですが、小説家として日本でも良く知られている「小泉八雲⇒ラフカディ・ヨハーン」が日本に来る前に住んでいたのがこのN.Oでした。
彼は若い頃新聞記者の時代に世界の各地に赴きその際特に世界の密教に興味を持ち、中でも「ブーズー教」に強く心を奪われ西インド諸島も度々訪れその後N.Oに定住します。
この西インド諸島の各地にはアフリカから奴隷船で連れて来られた黒人が多く彼等が愛した宗教はキリスト教では無く「ブーズー教」だったのです。 デキシー目次ページトップ
マリー・ラブュー
ブーズー教とは1800年代初頭、人々から『ブーズー・クイーン』と呼ばれていた「マリー・ラブュー/MARIE LAVEAU」によって一代勢力が作られその後、彼女の娘によって引き継がれ約六十年間活発な活動が続き1850年代にそのピークを迎えた代表的黒人宗教の一つです。
今ではN.Oだけで無く広く世界中に多くの信者を持っています。
赤いフラノ地のブーズー信者手作りバッグは「グリ・グリ・バッグ」と呼ばれブーズー教信者の必需品です。
南北戦争の北軍勝利によって「奴隷解放」が実施されると西インド諸島各地から多くの黒人がN.Oにやって来ます。
それ故「F・クゥオーター」界隈には数多くのブーズー教の品を扱っている店が見られるのです。
このロイヤルストリートの一角には「小泉八雲」が住んでいた家も現存していてそこも今ではブーズー教の品を扱っている店となっています。
今でも時折ブーズー教独特の激しいダンスの集会を一昔前迄は「コンゴー広場」と呼ばれていた「ルイ・アームストロング記念公園」の中で見られます。
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デキシーランドの作曲者
拡大キャナルストリートのワーリェン・ミュージックビル 1990年代にレストランに替わった Photo by Infrogmation
出典:ウィキペディア
既に紹介しましたアメリカで二番目に大ヒットしたと言われる、1753年に書かれた流行歌「デキシーランド』の作曲者「フィリップ・ワーリェン/PHILIP WERLIEN」は祖国ドイツからこの地に来た時にアメリカ北部には素時らしい歌が数多くあるのに、この南部に無いのが寂しいと自らこの曲を作ったのでした。
彼は20世紀初頭アメリカで最初のクラシック音楽以外の楽譜出版社を設立、ジャズ発展に実に隠れた大きな仕事をしました。
(当時はレコードもラジオも無く、音楽を伝達するには譜面の力が全ての時代)この彼が経営する譜面専門店が数年前迄「F(フレンチ)・マーケット」の傍らに存在していたのですが残念な事に現在は無くなってしまいました。
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セントルイス・カセドラル教会
拡大町のシンボル「セント・ルイス大聖堂」 Author:Barry haynes
出典:ウィキメディア・コモンズ
市の中心の"臍(へそ)"として位置するのはジャクソン広場対面の「セントルイス・カセドラル教会」で、そこからミシシッピー河沿いに走る「デカータ・ストリート」を東から西に「F(フレンチ)・マーケット」「ギフト・ショップ」「ジャクソン・ブリューワリー」、更に河沿いリバーウォークには観光客相手の数多くのアーケードや水族館等がある。
「F・マーケット」と水族館周辺の海沿いに観光用の路面電車が往復していて気軽に利用出来る。
ミシシッピー河の上ではご機嫌な「デュークス・オブ・デキシー/DUKES OF DlXIE」の生演奏が楽しめる『ナッチェス』等の観光遊覧船の乗り場は「ジャクソン広場」と水族館周辺から毎日午後出港。
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どの通りにもジャズが溢れるフレンチ・クゥオーター
「F(フレンチ)・クゥオ一ター」の外れ第38街区にあった紅灯街「ストーリービル」の入口「ベィズン・ストリート/BASIN St」を過ぎ「F・クォーター」に入って行くその南北に連なる最初の長い通りは「ランパート・ストリート/RAMPERT St」、この通りは「キャナル(運河)・ストリート/CANAL St」の遥か向こう迄続く通りでこの「キャナル・ストリート」から「F・クゥオ一ター」の北側が「NORTH RAMPERT St」でその反対側が文字通り南側「SOUTH RAMPERT St」です。
所で、ランパートとは"城壁"の事で今では取り壊されて実際に見る事が出来ませんが以前はここに二つの大きな城壁が存在していたのです。
さて、お城は存在しないのに何故ここに大きな城壁が作られたのでしょうか?
それはこの地区を「F・クゥオ一夕一(植民地)」と決めたその当時のフランス人の町作りの考え方に「先ず外壁を固め、外敵から身を守る」と言う常識があった為なのです。
どの通りに行っても一つ一つ物語が存在する様に、どの通りにも素敵なデキシーメロディーが存在します。
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ニュートラル・ゾーン
「キャナル・ストリート/CANAL St」とは当初ここに大きな運河を作る予定でしたが実施に至らずそこはだだっ広い道路となり(一時代では南部一の広い道路として人々に知られていた)この呼び名だけが残りました。
やがて1803年にこの地が合衆国となるとこの新天地に夢を求め数多くの「アメリカ人」がやって来ますが当然の様に既存の「F・クゥオ一夕ー」住民との間に紛争の火種が尽きなかったので人々はこの「C・ストリート」に境界線を設け「ニューカマー/NEWCOMERS」と称される人達の生活領域をその南側に作り様々な問題解決を図りました。
いきなり異文化、異人種が入って来ると様々な問題が派生した為に当然の如くこの様な処置が為され「C・ストリート」は双方の問題解決の交渉の場として大変重要な意味を持ち、人々はここを「ニュートラル・ゾーン/NEUTRAL ZONE=中立地区」と呼んでいます。
今でもこの通りを散策すると南側と北側では全ての趣が少し違います。
ここを歩くと1922年に「K(キング)・オリバー」と「L(ルイ)・アームストロング」によって作曲されたと言われる「キャナル・ストリート・ブルース」が聞こえてきそうです。
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サウスランパ一ト・ストリ一ト
更にこの通りの南側に足を進めて行くと生粋のN.O生まれの白人デキシーグループ「ランパート・ストリート・バレーダース/RAMPERT STREET PARADERS」の初代ドラマー「レイ・ボーデュック」と日本でもお馴染みそして、あの「ファッツ・二ュー/WHAT'S NEW?」の作曲者でもあるベーシスト、「ボブ・ハガート」によって1937年に書かれたデキシーの名曲「サウス・ランパート・ストリート・パレード/SOUTHRAMPERT STREET PARADE」の明るい雰囲気がそのまま味わえます。
正にこのランパート南側通りのパレードの光景が描かれた名曲です。
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永遠の破滅ストリート
「D(デューク)・エリントン楽団」の「ホファン・ティゾル」と「ハリー・レンク」が1941年に作曲し、1944年「ルイ」の演奏で一躍有名になった「パーディドゥー/PERDIDO」このタイトルは何と"永遠の破滅"と言った意味ですがこんなネーミングをどうどうと使った「パーディドゥ・ストリート/PERDIDO St」はキャナルの南側の奥に位置し、ここは「L・アームストロング」の生まれた場所として知られていますが当時のこの一帯はその名の通り数多くの黒人達とニューカマーの貧民窟が多いスラム街だったのですが今は全くその面影は見当たりません。
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古き良き時代を留めるF(フレンチ)・クゥオーター
現在「F・クゥオ一ター」の全ての建物は日本で言う重要文化財扱いとなり建物の内側の内装改築、改造は可能ですが外観は全て保存対象物に指定されているので昔のままで、この通りを歩くと今でも華やかだつた一時代を忍ぶ事が出来ます。
この町の中心の通りと言えば今も昔も変わらずセクシーで、ケバケバしくしたたかなバイタリティーに溢れているのが「バーボン・ストリート(ウィスキーとは関係無し、フランスのブルボン家の流れ)/BURBON St」でここは正に、クレオール人がコツコツと築いた町そのものです。
ここでは「ポール・バーバリン」が1951年に書き直したトラディショナル曲、あの「バーボンストリート・パレード/BOURBON St PARADE」の雰囲気が実にぴったりします。
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ベイズン・ストリート
デキシーランドジャズ最高傑作の一つとして知られる「ベイズン(穴ぼことか水溜まりの意)ストリート・ブルース/BASIN St BLUES」は「スペンサー・ウイリアムズ」1928年の作曲。
この曲は「ルイ」によってヒットしますが、その後テキサスからやって来た巨星!名トロンボーン奏者の「ジャック・ティーガーデン/JACK TEAGARDEN」の持ち歌としても有名で.ジャックが歌うこの曲の出だし「WON'T YOU COME ALONG WITH ME!」のパートはその後のこの曲の代名詞となり、どの演奏家も必ず演奏しますがこの作曲は「グレン・ミラー/GLENN MILLER」です。
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バーガンディ・ストリート
ジョージ・ルイス Photo by Stanley Kubrick published in "Look" magazine,June 6,1950
出典:ウィキペディア
1800年生まれのN.Oジャズの名クラリネット奏者「ジョージ・ルイス/GEORGE LEWIS」の唯一の作曲と言われる彼が生まれ育った町の通りを描いた美しいメロディー「バーガンディ(フランスの地名・赤ワインの代名詞)ストリート・ブルース/BURGUNDY St BLUES」は南北に走る「ランパート・ストリート」の次に位置する通りで、東西をクロスして行くこの通りは「セント・ピ一夕ース/St' PEATERS St」「オリンズ/ORLEANS St」「セント・アン/St' ANNE St」「デュメイン(フランス王族)/DUMAEIN St」そして「セント・フィリップス/St' PHILLIPS ST」と順を追ってここの通りの情景をあのメロディーで表現しているのです。 デキシー目次ページトップ
市の花はマグノリアス
拡大ベニー・グッドマン
出典:ウィキペディア
『スイング王/THE KING OF SWING』「B(ベニー)・グッドマン/BENNY GOODMAN」の演奏で一躍有名になった「セント・フィリップス通りの散策/St' PHILLIPS St BREAKDOWN」は「ランパート、バーガンディ、バーボン、ローヤル等の通りを東西に縦断している賑やかで楽しい通りで、この曲を口ずさみながらここを散歩すると気分は最高!
どこを散策しても5月のこの時期はN.Oの市の花となっている「キョウチクトウ」⇒「マグノーリアス」(N.O市のロゴマーク)が美しく咲き乱れ、何もかも皆デキシーメロディーを持っていて実に楽しく正にここは『デキシーランドジャズ』の故郷なんだと実感させられる。 デキシー目次ページトップ
ニューオーリンズのタイトルがつく曲
『ジャズ』発祥の地「ニューオーリンズ」の名のついた『デキシーランドジャズ』スタンダード曲も数多い。
☆「ニューオーリンズ」(NEW ORLEANS)
1932 HOAGY CARMICHAEL
「スターダスト」を作曲したH・カーマイケルはご当地ソングも数多く、ジョージア州を歌った「我が心のジョージア」とこの「ニューオーリンズ」は特に有名、50年代の名コルネット「B(ボビー)/BOBBY HACKET」が名演奏をしている。
☆「ニューオーリンズ去り難し」(DO YOU KNOW WHAT IT MEANS TO MISS NEW ORLEANS)
1946
LOUIS ALTER EDDIE DE LANGE
映画「ニューオーリンズ」の主題歌として「ビリー・ホリデイ」の名を一躍世に広めた美しいメロディー、この映画にはジャズの『神様』ルイ・アームストロングも共演している。
☆「ニューオーリンズ遥かなり」(WAY DOWN YONDER IN NEW ORLEANS)(YONDERとは遠く離れもう戻るのは難しい遥かと言う意味がある)