Volume 2
ニューオーリンズよもやま話
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(1)デキシーランドジャズの誕生とその歴史
拡大フレンチクォーターのプリザベーション・ホールの看板
看板はトランペットとトローンボーンの古いケース
Photo by Infrogmation
出典:ウィキメディア・コモンズ
「Volume 1」の(その1)から(その3)では、N.Oの町の歴史と20世紀に入った「ジャズ誕生」のお話でしたが、多くの読者からN.Oの話が面白かったのでもっと多く取り上げて欲しいと言われましたので、今回はその線で話を進めて参りましょう。
尚、ここからのお話にはN.O在住30年以上のMRS.MITSUKO KENNAIR(みつ子・ケナヤ)さんにご協力をお願いしました。
彼女は当地でプロ・ツアーコンダクターとして活躍と同時に、N.Oの町の歴史についての研究者としてもひとかどの人です。
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N.Oジャズとデキシーランドジャズの違い
デキシーランドジャズを知り、楽しんで行くとその演奏スタイルが実に数多いのに驚かされます。
どのバンドも皆各々独特の味付けをして聴く人を楽しませてくれますが、そうなると「果たして、どれが本当のデキシースタイルか?」と言う疑問が湧き始めます。
ジャズとは常に演奏者の感性で自由に表現が可能な所にその最大の魅力があるのです。
ですから、仮に100のバンドがあれば100の自由な演奏スタイルがあって当然で、これに「どれが真実のデキシースタイルか?」等と論じる事自体、実は無意味なのです。
これは正に料理や宗教等と同様で、各人の好みや評価と言うのはその時の価値観で当然大きく左右され、ある時はそれが爆発的に! 或いは熱狂的に支持され、ある時は突然それが疎遠扱いにと、まるで生き物同様常に変化して行きます。
今ではクラシック演奏と同様に譜面を用いたジャズ演奏も極く当たり前ですが「ジャズ」は如何なる場合でもプレーヤーの個性を自由に"表現出来る"或いは"表現する"点が最大の魅力なのです。
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中華料理とデキシー
ちょっと話が脱線して恐縮ですが、中国料理を例にとってお話をしますと、ある人の中国料理とは「北京」料理を意味し、ある人の中国料理とは「広東」料理を意味し、「四川」「上海」「客家(はっか)」「福建」「山東」「蘇州」「香港」「台湾」、仮にこれこそが中国料理の源流だとしても、それすら無数に存在しそこにその時代の作法やしきたり等の違いを加味し「皇帝料理」「家庭料理」「接客料理」等々と分類していったらそれこそキリがありません。
更にその材料の吟味、そしてそれを料理する道具や職人の味付けの仕方次第で如何様にも変化します。
「それはそうだが・・・・」と人は何かと気休めとなる「安直な決まり(ルール〉なるもの」を求めたがるもので、それが例えあやふやで曖昧でもその時点で人々が納得(?)理解(?)し易い事を適当に、偉そうに解説すれば、もうこれは一丁前の料理評論家或いはジャズ評論家扱いを受けるのが世の常ですが、どれも大した意味は無く大事な事は貴方自身がその時食する人として、或いは聴く人としてそれを満足し、心休まるかどうかなのです。
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百人百様の解釈
良くデキシーランドジャズが大好きになり親しんでいくと必ず「N.Oジャズとデキシーランドジャズの違いは何?」と言った様なテーマが論議されますが、これも百人の評論家がいれば百通りの意見が出て当り前です。
これは私から皆様への提言ですが、この様な時には皆様ご自身がご自由に判断され、そしてそれを大いに楽しむ事が大事な事です。
そんな時の皆さんの格好の材料になればと願いこの"ジャズよもやま話"を綴ります。
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クレオール人によって花開くジャズの芽
クレオール人とは白人と黒人の混血の人達の一般的な呼び名ですが、N.Oの町をフランスが統治していた頃のフランス人、スペイン人農場主や農場関係者の白人達と黒人奴隷女性との間に生まれた一握りのクレオール人の子供達の中には特別なエリート扱いを受けフランス留学をさせる事等が大いに流行った時代があります。
南北戦争(1860~65年)以前の19世紀中頃の'50年代にはその流行は頂点に達しこの白人の親を持つ子供達はアフリカからのニグロ黒人とは一味異なる上に「クレオール人」とも違う「ムラート」と呼ばれ正規の教育学問を学び音楽教育等もしっかり学んだ人々も多くいました。
その「ムラート」の彼等の多くが後のN.Oの町作りや新しい音楽の台頭過程で皆指導的立場を担い、「ミンストレルショー」等が巷に普及し人々が更なる音楽を求めていた時代の1897年に突如登場した「紅灯街⇒ストーリービル」でジャズ誕生の母体が生まれる頃はこの「ムラートクレオール」の人々が音楽ビジネスの主導的権限を一手に握っていて、ジャズ誕生前段階ではこのクレオール人の "心" 無くして「ジャズ」の歴史は語れません。
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日本でも楽しめる本場のクレオールジャズ
東京浅草の「全国おかみさん会」会長の冨永照子さんが毎年夏に既に二十数年続けている「N.Oジャズ・オールスターズ」の日本公演ツアーのメンバーはN.OのF(フレンチ)・クォーターの名所「プリザベーション(保存)・ホール/PRESERVATION HALL」で活躍している正にクレオールの子孫達で構成され、リーダーの「ジョン・ブルーニァス⇒ウェンデル・ブルーニァス」(10年間は兄のジョンが勤めた)さん始めメンバーの大半は生粋のクレオール人で「クレオールジャズの香り」が充分楽しむ事が出来ます。
☆平成21年からはクラリネットの名手、「トーマス・フィッシャー」がリーダー。
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ジャズ誕生とクレオール人
拡大キッド・オーリー・クレオール・ジャズバンドのクレセントレコード
出典:ウィキペディア
ジャズ誕生の初期段階でクレオール人の残した功績は実に大きく、「バディー・ボールデン」「フレディー・ケパード」「ジミー・ヌーン」「キング・オリヴァー」「バンク・ジョンスン」「キッド・オーリー」「ジェリー・ロ一ル・モートン」「シドニー・ベシェ」他多くの開祖者は皆このクレオール人で、デキシーランドジャズの名曲「マスクラット・ランブル/MUSCRAT RAMBLE⇒ジャコウ鼠の散歩」の作曲者として知られる名トロンボーン奏者「E(エドワード)・キッド・オーリー/EDWAED KID ORY」はこの伝統ある「B(バディー)・ボールデン」⇒「K(キング)・オリヴァー」から受け継いだ自分のバンド名「クレオール・ジャズバンド/CREOLE JAZZBAND」を生涯踏襲しました。
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独り立ちして行くジャズ
この様に「ジャズ」の初期は正に「ジャズ」の権利そのものはムラートと呼ぶばれるクレオール人の独占事業だったのですが、1917年4月にアメリカの第一次世界大戦参入が正式決定、それ迄二十一年間クレオール人によって未曾有の栄華を極めていた「紅灯街⇒ストーリービル」が突如閉鎖されてしまった事、そして1920年代に入り華々しく世に登場するあの天才トランペッター「ルイ・アームストロング」(彼はクレオール人では無い)の台頭等でそれ迄栄華を独占して来た "ジャズ" はクレオール人の手を離れ一人歩きして行くのです。
どれだけの栄華を独占していたかについて前述のクレオール人のトランペッター「J・ブルーニァス」さんにお話を伺うと、彼が現在のN.Oで音楽活動をする時は「クレオール人がその時代のジャズを独占していた際の恨み、ねたみ等から白人サイドそして黒人サイド双方からあらゆる迫害を受ける」と彼の真実の心を話してくれました。
今から百年程前のクレオール人とジャズの関係の強さをここからも知る事ができます。
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創世期のサウンド
バンク・ジョンスン(1879~1949)
Author:William P. Gottlieb 出典:ウィキメディア・コモンズ
クレオールジャズの先駆者「B・ボールデン」「F・ケパード」「B・ジョンスン」達の若き日のサウンドは録音技術が無く残念ながら残ってませんが1917年コロンビア社とビクター社が始めた電気録音方式のSP盤レコードで「ジャズ」が世に知れ渡った暫く後に創成期のジャズに関しての機運が盛り上がり、その時点で生存していた「B・ジョンスン」や「F・ケパード」の(既に若くは無い)枯れた貴重な演奏録音が残っていますが第一人者である「B・ボールデン」のサウンドは残念ながら残っていません。
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レコードの独禁法裁判
「ODJB/オリジナル デキシーランド ジャズバンド」を起用し大成功を収め世に登場したSP盤レコ一ドは当初「コロンビア」と「ビクター」の二社だけが市場を独占していましたが 1918年に「ジェネット」社が独禁法裁判を起こしその裁判に勝った結果、市場には実に沢山のマイナーレーベルが誕生しそこで数多くの録音がされますが、この時代は未だ録音技衛の問題や著作権問題、販売ルート問題を始めとしたレコード業界の問題点の整理等に時間が費やされ実際に販売に至った物は少なく、SPレコードの市場への本格的稼働は実質的に1920年代に入ってから凄まじい勢いで始まりレコード会社(レーベル)は一気に五十社近い数に達しました。
面白い事にこの2~3年のレコ一ド幼少時代の録音はプレスし販売する僅かな期間にも世の中の録音技術がどんどん向上したので多くは販売に至らずお蔵入りし、その時代のサウンドは1920年代から始まった『デキシー黄金期』では一切日の目を見る事は無かったのですが.十数年経った1930年代後半になってジャズブームがやや下火傾向を示し始めると各社が一斉に「ジャズの歴史」路線を打ち出しこの時代の音質の良くないデキの悪いサウンドがお蔵から引っ張り出されて日の目を見る事になります。(リバイバル・ブーム)
N.Oジャズ? トラッドジャズ?
「コロンビア」社と「ビクター社」で歴史上初のジャズ録音をした白人の左利きコルネット奏者「N(ニック)・ラ・ロッカ」の「オリジナルデキシーランドジャズバンド(ODJB)」の演奏は間違い無くN.Oを音源としていますが人々からはN.Oジャズとは呼ばれずむしろ「トラッド/TRAD(古典の)ジヤズ」とか「デキシーランドジャズ」と分類ざれています。
デキシーランドジャズの名付け親トム・ブラウン
拡大1910年代はじめのトム・ブラウン
出典:ウィキペディア
ここに一つ、実に面白い話が残っています。
N.Oでクレオール・ジャズを学び比較的初期に「ODJB」等と共にシカゴにやって来ていた白人トロンボーン奏者「トム・ブラウン」はライブハウス「ラム・カフェ」に出演していた際に、音楽協会(MUSICIAN'S UNION)からしつこい程の協会加盟勧誘を受けますが、彼はガンとしてそれに応じません。
遂にユニオン側はキレてしまい、「お前らのやってる訳の解らない音楽はとてもまともな音楽とは呼べない! お前達の音楽は淫売屋の音楽 "ジャズ" だ !」(これは当時シカゴの売春宿で主に女性によって使われていたセックスを表す卑語)と罵り、これでこのグループを抹殺出来ると思い怒って店を後にします。
ところがこれをヒントに「ラム・カフェ」の経営者は店の看板に「トム・ブラウンのデキシーランドジャズ・バンド」と書いたらこれが大当たり ! この日から「ラム・カフェ」は連日満員大盛況となります。
白人スタイルのジャズ
ここから、この新しいスタイルの音楽が若者に大ブームとなり、「デキシーランドジャズ」と言う呼び名が一躍巷に知られる様になります。
この話の続きですが、結局T(トム)・ブラウンはその後もユニオンの会費は決して収めなかったそうです。
この日を境に「ラグタイム/RAGTIME」「ブルース/BLUES」「ジャス/JASS」(ジャズではない)等と呼ばれていたこの種の音楽を人々は「ジャズ/JAZZ」と、或いは「デキシーランドジャズ」と言う呼び方をする様になります。
更にこのバンドが全員白人の編成で音楽教育は黒人とは異なり、かなりしっかりしていて、黒人奴隷が苦境の中から滲み出して来るピュア(純粋)な「クレオール・ジャズ」⇒黒人スタイルの音楽とは一味も二味も違う洗練された白人感覚での陽気で明るく、悲愴感や黒人が大切にしているきまりやしきたりを余り重要視しない自由奔放な演奏スタイルだったので、当時の白人若者の心を強烈に捕らえ「K(キング)・オリヴァー」や「K(キッド)・オーリー」達が演奏するクレオールやニグロの演奏する音楽を古典的ジャズ⇒トラッド或いはN.Oジャズとし、「T(トム)・ブラウン」等白人の陽気さと華やかさを "売り" とするジャズを「デキシーランドジャズ」と人々は何と無く別けて使う様になるのです。
勿論こんな分類方法では多くの間違いや誤解を生んで正しいとは申せません。
然し、この「T・ブラウン」のしきたりや慣習にとらわれず自由奔放で型破りなスタイルはシカゴ「オースチン・ハイスクール」の若者始め多くの白人若者から絶大な支持を受け、一般社会に浸透して行き1917年の「ODJB」の歴史的録音となり「ジャズ時代/JAZZ AGE」の幕が切って落とされるのです。
黒人向けレコードの登場
「ビクター社」の大ヒットで白人社会にデキシーブームが巻き起こると黒人達は白人ジャズに鼻持ちならぬ感覚を抱き必然的に彼等の心に直結する白人のサウンドでは無い黒人向けのレコーディングを開始します。
その代表格は「ジェネット/GENNETT」と「オーケー/OKEH」社で、これが黒人社会の熱狂的支持を受け、その後の「ローリング20'TH」の『第一ジャズ黄金期』形成に大きく貢献します。
黒人達は白人の「デキシーランドジャズ」と違って彼等に呼応する黒人ジャズを白人ジャズとは一線を画し「ニューオーリンズジャズ」と言う呼び名を使っていた様です。
ルイ・アームストロングの生い立ち
「ルイ・アームストロング」は間違い無くN.Oの貧民層の黒人が多く住む「パーディドゥ通り/PERDIDO STREET」で生まれ、少年時代のお祭りの際浮かれ、羽目を外しピストルをぶつ放したとして少年院送り(これは黒入差別社会では良くある作り話)となり、そこでコルネットを習得し退院直後あこがれの「K(キング)・オリヴァー」の指導を受け、蒸気船の上で本格的なクレオールジャズを体得し、後のN.Oとジャズの象徴⇒『ジャズの王様』となる人です。
ルイの初録音
新参入でレコード界ではマイナーレーベルの「ジェネット/GENNETT」社や「オーケー/OKEH」社の名を一躍世に知らせ占めたのは「B(ベッシー)・スミス」や「M(マミー)・スミス」他の女性ブルース歌手達に加えて若き日のあの天才コルネット吹き(この時代にトランペットという楽器がまだ世に出ていない)「L(ルイ)・アームストロング」でした。
「ルイ」の最初の録音は1923年4月インディアナ州リッチモンドのジェネット社での「K(キング)・オリヴァー」のバンドで『ジャスト・ゴーン/JUST GONE』『キヤナル・ストリート・ブルース/CANAL ST' BLUES』他数曲でその時のメンバーは「K・オリヴァー」と「L・アームストロング」の(Cor)」、「O(オノレ)・デュトレー(Tb)」「J(ジョニー)・ドッズ(Cl)」「L(リル)・ハーデイン(P)」「B(ベニー)ジョンスン(Bj)」「B(ベィビー)・ドッズ(Dr)」の七人編成、2ヶ月後の6月に(Bj)が「B(バッド)・スコット」に変わり同じメンバーで「オーケー社」から「スネーク・ラグ/SNAKE RAG」「ハイソサエティー・ラグ/HIGH SOCIETY RAG」他数曲が録音され、黒人ファンに大きな話題を呼び、ビクターから後に発売される黒人向け廉価版レーベル「レースレコード」発売のきっかけとなります。
ホット・ファイブ
「ルイ」は1923年から1925年の3年間に実に数多くのレコーディングをし、1925年11月に彼が初めてリーダーとなる歴史的バンド、「ホット・5(ファイブ)/HOT 5」を結成し大反響を呼び起こします。
「L・アームストロング(Cor)」
「K(キッド)・オーリー(Tb)」
「J(ジョニー)・ドツズ(Cl)」
ルイと新婚早々の、「L(リル)アームストロング(P)」
「J(ジョン)サンサンシール(Bj)」
2年後の1927年には「HOT・7」を結成この時の演奏はどれも「ジャズ」の原典と称される最高傑作です。
ルイの足跡
N.Oから傑出したジャズの天才「ルイ」が歴史に残した功績は実に多大なもので、当然、N.Oの町に行けぱ沢山の記念物に出会える筈!と期待し胸を弾ませて行きますと、確かにN.Oの空港は彼の名前が使われているのと「F(フレンチ)・クゥォーター」の入口に存在する「ベイズン・ストリ一ト/BASIN STREET」の傍らにある一昔前は「コンゴー広場/CONGO SQUER」として人々に知られていた有名な広い一角が今では「ルイ・アームストロング記念公園」となって人々に知られていますが、彼がクレオール人では無かったので偉大な彼の足跡を市の中心、「F・クゥオーター」の中で見い出そうとすると以外とそれが難しいのです。
売春宿とデキシーランドジャズ
クリフお爺ちゃん
N.Oの話で、ふと知りたくなったのがその当時市に届け出をしていた2,200人いたと言われるストーリービルの「夜の蝶々さん」のお値段についてで、それを知るにはよそ者、特に日本人には大変危ない地区なので "独りでは絶対行くな !" と地元の人達にきつく言われていた「L・アームストロング記念公園」の隣の「ベィズン・ストリート」の町に潜入しなければ知る手立ては無いと思い、朝早く友人から借りた自転車に乗って独りでその「危険地区」に出向いて見ました。
運良く道端で朝のお掃除をしていた少し太めの"黒人おかみさん"に出会い、その話をしたらご親切にも彼女は家の中迄招いてくれて、「あんたの知りたい事を知ってるのは今では80歳以上でその時代にこの土地に住んでいた人しか分からないだろう ! そうなるとあのクリフ爺さんしかいないよ、ちょっと待ってなさい、今電話して見るから!」お茶をご馳走になり暫くしたらその84歳の「クリフお爺ちゃん」が何と一人で白いキャデラックでやって来てくれたので大感激!早速その話題に突入すると、「わしはこの話をわしのお爺ちゃんから聞いたのだが、」と前置きして(確かにこのクリフお爺ちゃんが生まれた年が1916年なのでそれより前の1900年頃の話となると・・・・)「今でもそうだがストーリービル華やかなりし頃、ここには世界中からありとあらゆる人々がやって来たのさ!フランス人、スペイン人、イタリア人、イギリス人、ドイツ人、地元のクレオール人、ニグロ、更に"ニューカマー/NEW COMERS"と呼ばれるこの地で一旗上げようとアメリカ本土からやって来たアメリカ人、中南米のブーズー教主体の西インド諸島からのニグロ、港に出入りする船と共にやって来た数多くのアジア人他」
売春宿とジャズ
「さて、そのストーリービルの売春宿では必ずと言っていい程 "ジャズ" が演奏されていたのだが、それにはそれなりの訳があったんだよっ !」とクリフお爺ちゃんの話はどんどん続きます。
「ともかく、ありとあらゆる人種の人々がこの町に押し寄せて来る中での売春宿の客扱いと言ったら大変な物で "ハンパな" 入間がやったのでは常に揉め事の火種となってしまうので、多少気の利いたインテリで機転の効く者が当然必要になっていたのさ、それに適していたのがバンドマン、取り分けピアノマンがその鍵を握っていたんだそうだ」「やって来た客は店に入るとそこにはやや広い接客スペースがあり、その奥の方に可愛い "蝶々さん" が待機、その境界の所にピアノがセッティングされていて、周りにバンドマンがいる形で、客は店に入ったら-先ずジャズを聴き、心をなごませてから自分のお気に入りを見つけ出す」「やがてお気に入りが決まるとその客はピアノマンに近づき、チップを渡しそのお気に入りをピアノマンに告げる」すると、「ピアノマンは演奏の手を休めずにその客とその彼女の相性や部屋等の取り決めをし、最後に価格を提示して双方の商談を纏める」
ストーリービルの花形はピアノマン
「時として人種の違いや好み等から女の方でその客が受入れられなかったり、金額面で揉める事が屡々(しばしば)、その客が金持ちか貧乏か常連客か一見(いちげん)客か等々の判断を瞬時にして対処し」「若しもそのお客が一見で金持ち!と判断したら飛び切り高い女の値段をつけ、店一番の美女を用意し最高の部屋 "ローズ・ルーム" にご案内するし、」「その反対の超貧乏が来ても決して追い返したりせず(そんな事が揉め事の要因)それなりの価格とブス女を提供し、道路脇で毛布一枚と言う条件で話をまとめたりする」「だから、あんたが知りたい "夜の蝶々さん" の一定の値段なんぞは存在しなかったのだが、こう云った賭事的やりとりが巷では結構評判を集めていたので売春宿の成否はピアノマンの腕次第!とさえ言われたそうだよっ」「この様にお客にとってもそして "夜の蝶々さん" にとっても極めて大切な存在だったバンドマン、取り分けピアノマンは大いにもててもてて、その結果殆どが重い梅毒に冒され、皆早くにおっちんじゃったのさっ!」とクリフお爺ちゃんは皺皺の顔で笑って話をしてくれた。
マホガニー・ホール
1900年 ルル・ホワイト
出典:ウィキメディア・コモンズ
クリフお爺ちゃんに20世紀初頭にここ「ベィズン・ストリート」の一角で話題となった白人美人「ルル・ホワイト」が経営していたと言われる当時の最も有名な売春宿「マホガニー・ホール」はどの辺りですか?と尋ねたところ、お爺ちゃんの返事は「それについては私は知らない!」と、ここで改めて百年と言う時の長さを実感させられました。
素敵な話が終わりクリフお爺ちゃんと別れる時に「又、是非お話を聞かせて下さい」と春川が言うと、彼はしっかりと私の手を握り締めながら、「そうさなあ、わしももうそんなに長く無いよっ、だけど春川!これだけは本当だし、信じてくれよっ」と真剣な眼差しで「わしはなあ ! ピアノが全然弾けなかったんだよ、だからわしは梅毒で死ぬんじゃあ無いよっ!」
MANY MANY THANKS、UNCLE CLEFF ! (クリフお爺ちゃんお達者で ! )
ジャズ誕生の源は売春宿ではない!
クリフお爺ちゃんの話で判る様に、ジャズ発祥の源と言うと一般的に「ちょっと怪しい場所」から生まれ出て来たと言うマイナー感覚の説が常識となっていますが、最近になって売春宿で演奏されていた質の音楽とジャズの源となった質の高い音楽誕生のキッカケを生み出したのは全く異質な場所の異質な音楽だったと言う説が唱えられています。
『ジャズの父』「B(バディー)・ボールデン」は当時のN.O『ストーリー・ビル』の大ボス「トム・アンダーソン」の経営する店の『パーティー・バンド』として今迄の音楽とは全く異なる演奏を披露し、それが絶大な人気を博し有名になったのです。
これがジャズ誕生の本当の最初の姿であって、たまたまこの評判の良い演奏スタイルを売春宿のプレーヤー達が一斉に模倣してジャズは確かに成長して行くのは事実なのですが、本当のジャズ発生場所は定説となっている売春宿レベルの音楽では無く、かなり音楽性の高かったパーティー会場音楽が源だ!とジャズに覆い被せられた暗いイメージを払拭する説も唱えられています。
ニューオリンズに綿花畑は存在しない
湿地帯では栽培出来ない綿花
拡大筆者が立ち寄ったニューオーリンズの「砂糖きびプランテーション」の1787年に建てられた母屋、ここの二階で『書生の部屋』を見る
Photo by Michael Overton
出典:ウィキペディア
N.Oの生い立ちや黒人奴隷の話になると、この地では数多くの綿花畑やコーン(とうもろこし)畑が存在し、黒人奴隷が沢山使われていた「プランテーション(農場)」が数多く存在していると思われがちなのですが、意外な事に綿花やコーンは河口のデルタ湿地帯のN.Oでは全く栽培出来ないのです。
湿地帯のN.Oで唯一栽培が可能だったのは "砂糖きび" だけなのにN.Oと言えば常に"綿花"と言った印象が強いのは何故でしょう? この話をジャズ仲間の友人に尋ねたら、彼は「この近くにプランテーション(農園)があるので実際に見に行けば良く分かるよっ」と言うので、早速車で町から40Km程離れた(近く?)二百人程の黒人奴隷を使っていた元砂糖きび農場に出向いたのでした。
扇の要の地ニューオーリンズ
拡大南北戦争以前の奴隷州
出典:ウィキペディア
南部の主要産物、綿花の栽培地帯と言うのはミシシッピー河流域のN.O市のあるルイジアナ洲の北部から始まりジョージア、ミシシッピー、アラバマ、アーカンソー、ケンタッキー、バージニア、テネシー他l4の州にまたがる広大な地域で、その扇の要の一大貿易港N.Oはそれらの地域で産出した "綿花" の物流拠点地として栄えたのでした。
この時代の綿花物流業務を一手に操っていた大金持ちの権力者達と言うのが皆このN.Oで甘い物に餓えていた当時の社会に砂糖きびで大儲けをしていたN.Oの財閥、富豪達だったので "N.Oと言えば綿花" と言ったイメージが一般に定着したのです。
N.Oの歴史に登場するスペインという国,この国はインカ帝国を滅亡に追いやる程の侵略や略奪、搾取には長けていて1300年代(コロンブスより早く)既にこの地にやって来て略奪を完了していましたが、いざその地を得て町や文化を育てると言った方面は余り向いていなかった様で、その点ではフランスの方が長けていた様でこの地がスペイン文化よりフランス文化の香りが強いのは自然の成り行きなのかも知れません。
世界一のどでかい賭け
さて、ここでとんでも無い話を一つ、時のフランスの成り上がりで無知、無能のボンボンの王子様と言うのが無類の賭事大好き人間で、ある日これ又スペインの成り上がり王子様と知り合いになる。
すっかり意気投合したお二人はそれからは当然の如く毎夜賭事ざんまいとなります。
やがて毎夜、連戦連敗のフランスお兄ちゃんの方は"すってんてん"となってしまい、もはや賭ける物が無くなってしまいスペインお兄ちゃんに全然相手にして貰えない。
悔しいの何のと言っても魅力ある賭ける物が無ければ全く振り向いても貰えない。
そこでフランスお兄ちゃんとしては何と最後の賭け品として彼が所有していた、アメリカの広大な土地、ミシシッピー河流域に隣接する14の州全てを提示して最後の賭けが開始されたのです。
歴史に残った結果は見事に又々フランスの過保護お兄ちゃんの敗北、それから暫くはスペインがこの地を支配し新たな歴史が始まったと言う全く信じられない出来事が存在していたのです。
アホの極致
いつの時代でもそうですが、たった一人の人間の我儘と言うのは言葉では語り尽くせない程実に恐ろしくそして実に愚かな物ですが、歴史の舞台裏ではこんな「とんちんかん」な賭け事等が数多くなされて今日の世界が存在しているのです。
既に触れた、時の皇帝「ナポレオン」が私腹を肥やす為に僅か1、800万ドル(推定640億円?)でこの地ルイジアナ州をアメリカに売った話、時のロシアがこれ又アメリカにアラスカ全域を売った話、N.Yマンハッタン地区を先住インディアンを安値とガラス玉で買い取った(驕し取つた、)白人の話等々と、歴史を紐解くと只々、それにしてもこの話のスケールの大きさには、改めて絶句!
山とは無縁のN.Oの人達
N.Oはルイジアナ州南東部ミシシッピー河の河口から約170Km上流のデルタ地帯に発展した町で,この地形から別名"クレッセント・シティ/CRESCENT CITY⇒三日月の町"と呼ばれここは世界の海の玄関口として名高くこの地に住む人々は世界と繋が る大きな海とミシシッピーと言う大河の恩恵で成り立っているので高い山とは余り縁がありません。
無論、広いアメリカですから北の方に行けば幾らでも高い山は存在しますが彼等の社会自体が山そのものと殆ど無縁なのでN.Oの人達の"山"の感覚は日本入の我々とは大きく異なります。
いわばN.Oは海や河の恩恵から商業で栄えた町と云えます。
高級木材と高級石材は?
さて"山"と無縁となると"木"が無い"石"が無いと様々な問題が出て来ます。
しかしN.Oの町の中心地「F(フレンチ)・クゥオーター」を散策すると実に美しく豪華な高級木材のオーク材やチーク材をふんだんに使ったスペイン風、フレンチ風の建物や家具が至る所に数多く見られますし、石材も目抜き通りの「B(バーボン)・ストリート」「R(ロイヤル)・ストリート」始め主要道路や大きな建物の床までが素晴らしい石畳造りと言う風に町中どこでもふんだんに見る事が出来ます。
N.O土産の人気アイテムの一つにN.O家屋特有のスレート屋根の破片に絵を書いた物が存在します。
これは一体どうしてなのでしょうか?
綿花物流の拠点地ニューオーリンズ
「F(フレンチ)・クゥオーター」を出てミシシッピー河づたいに暫く車を走らせると「倉庫地区」と言うとてつもない広い空間が登場して来ます。
こごがかつて綿花の出入りを一手に取り仕切っていた場所で、現在は大手石油会社の石油保管基地となっていますが、ここに来ると全盛時にとてつも無い数の船舶が出入りしていた光景が忍ばれます。
そしてとてつも無い量の綿花が世界を舞台にここで取引きされていた事も良く解ります。
先程の高級木材や石材の話ですがこの時代綿花を運搬輸送する船が入港の際には綿花を満載する分のバラスト(重り)を必要としたのでどの船も必ず木材や石材を山積みしやって来て船が港に着くとそれらを破棄してから綿花を満載して出て行ったのです。
つまり高級木材や石材で美しいN.Oの町並みは殆どがこの時に排出した材料を上手に利用した物なのです。
そして改めてその量の凄さを図り知る事が出来ます。
「港湾労働風景」
未だ写真が普及していない1835年頃の綿花を大量に扱うニューオーリンズの港湾労働風景
出典:ウィキメディア・コモンズ
世界中から何でも手に入ったニューオーリンズ
「砂糖きびプランテーション」の中の富豪の屋敷の二階で「ここは富豪の娘さんの部屋です」と案内されて入って行って私は意外な物を目にし、びっくりしました。
それは江戸時代に将軍や大名が使っていたと思われる高級な「蚊帳⇒かや」が娘さんのベッドの周りに張られていたのです。
この屋敷が完成した1787年と言えば日本は間違い無く江戸幕府の鎖国時代。
勿論中国や東南アジアでもこれに似た「かや」は存在しますが皇帝等の上層階級や一部の人々が使っていた寝室全体を覆う大きな物で、ここで見たのは個人用の間違い無く日本製と思われたので、直ぐにここの人に尋ねたら資料室に案内してくれてこの蚊帳の入手時期や経路そして価格等の資料を見つけ出してくれました。

そして解った事は、
☆この地では綿花は容易に入手出来たが「麻」はアジアからの貴重品で当時は非帝に希少価値の高い大変高価な物だった。
☆N.O地区は湿地帯なので人々は常に蝿や、蚊、ゴキブリ、鼠等の害に悩まされている。
☆当時の上流社会、金持ちの間ではこの高級品の「蚊帳」を持つ事がステータスシンボルとして流行り、アジアの国々と交流していた船乗りはどんどん運んで来た。
☆ここの蚊帳の確かな出生国は解らなかったがアジアからである事だけな間違い無い。

そして購入価格の記載欄を見て驚いたのはこの「蚊帳」のお値段は現在価格に換算すると約一千八百万円!(何張かの記録は無かったが)この富豪の自分の娘の可愛がり方が想像出来る、しかし私には壁に掛かっていた娘の肖像画はさして可愛く思えなかった、きっと私の目の調子が悪かったのでは・・・・・
鎖国も関係無く!
この様にこの時代のN.Oは既に世界中のどの港とも直結していて「陶器」が欲しければ中国から、何々が欲しければどこどこの国からと「お金」さえ払えば何でも自由に手に入る現代社会と同じ構図が既に出来上がっていた事がこの「蚊帳」一つから察する事が出来ます。
「仮に、その国が身勝手な鎖国をかたくなにしていようと、いまいと関係無く、」
家族愛を大切にするフランス人農場主
娘さんの部屋とは別の部屋が書生奴隷(ムラート⇒クレオール人)の部屋と知りこれ又、びっくり、ここではフランス人農場主の感覚がしっかりと存在していました。
一般にこの地区のフランス人農場主はカトリック系の宗教に属し、奴隷と雖もその家族を大切にし愛情を注いでいました。
園内の200人以上の黒人奴隷の中には、農場主が惚れ込んでしまう程の素晴らしい娘もいて、そこから当然情が乗り移りそんな美しい若い娘に子供を産ませ我が子として育てるバックグラウンドがここに存在しこの地で生まれた白人と黒人の混血人を一般には「クレオール人」と称していたのですが、これらの農場主はこの子供達は"アフリカ黒人"とも"クレオール人"とも違う"ムラート"と称して、しっかり学問の機会等を与えそれを実践していたのが正にこの「書生部屋」であり、ここで学問を身につけた多くの若者が後のN.Oの町作りに大いに役立った事を知り実に感心させられた。
黒人奴隷の扱い
奴隷に対する感覚の違いには大きな歴史の違いがあり、実に複雑な要素がからんでいます。
この時代の白人とはフランス人、ポルトガル人、イギリス人が多かったのですがこの地が「アメリカ合衆国」の一部となり、当然彼等はアメリカ人となりその中から多くの農場主が誕生しますが実際の奴隷に対する扱いには大きな違いがありました。
「フランス系」農場主の多くはカトリック教が主体で、その教えは"結婚は神聖な物"で例えそれが黒人奴隷であろうともその部分の否定はしなかった。
「スペインやポルトガル系」の農場主の多くは労働については支配したが心の束縛はしなかった。
動物扱い
奴隷に対し最悪なのは"一般アメリカ人"と称される多数派の「イギリス系」の人としての心等一切無い「プロテスタント教」がもたらす物の考え方で、(ヨーロッパでは既に古くから奴隷制度が存在していた)「奴隷とは道徳的に弁護の余地の無い堕落した人間!」と、全ての宗教共通の只手前勝手な自己中心、自己美化、自己評価、自己判断で凝り固まった実にアホで間抜けで間違いだらけの発想で「白人の我々だけが優れた入間!」と人としての心等全く無い最低最悪な解釈をし"奴隷とは肉体だけで無く精神さえも支配しなければ生きて行けない劣った人聞!"と決めつけ日々どうどうと実践していたのです。
歴史は繰り返す
少し話が脱線しますが、この時代から2世紀後の21世紀、2003年に国連安保理の採択を一方的に無視して中近東諸国に戦争を強硬し続けるアメリカ、それに伴う各国の見解の相違で特に注目されるのがフランス、イギリス、スペインの主張でご存知の通り、戦争を強硬するアメリカにフランスは非難の立場に廻り、イギリスとスペインは何となくアメリカに同調と言った姿勢が見られますが、ここではそれより2世紀以前のアメリカ国内で起きていた奴隷に対する感覚対応と全く同じ構図がくり返されているのが良く解ります。(正に歴史はくり返す)
白人讃歌
1712年から始まった「奴隷貿易で」アフリカから強引に連れて来られN.Oの町の中心の悪名高い「奴隷市場」でムチで打たれ売買され、全米各地に連れて行かれた数多くの奴隷達に対して当時の白人社会は彼等に何一つ同情すると言った気持ち等は一欠片(かけら)も見られませんでした。
ミンストレル作曲家の「ジェームズ・ブラント/JAMES BRANDT(1854~1911)」が南北戦争以前に書いた「懐かしのバージニア/CARRY ME BACK TO OLD VIRGINIA」は誰もが知っている美しい曲ですが、この曲のテ一マである年老いた黒人奴隷が「私の故郷バージニアに」と言うくだりのバージニア讃歌的なこの曲は白人の身勝手な思い上がり発想であって、黒人の本当の心の故郷は無理やり連れて来られた異郷の地の「バージニア」なんかでは無く彼等の故郷はいつでも夢に見る広々としたアフリカの大地だったのです。
然し、当時はこの曲の美しい旋律故大ヒットしますが黒人にとってこれは耐え難い事で今の時代でも彼等の前でこの曲を口にするのはご法度です。
ビックス・バイダーベック
拡大B・バイダーベック
出典:ウィキペディア
1931年ジャズ史上最大の天才白人コルネット奏者、若く(28歳)してにの世を去った「ビックス・バイダーベック/LEON BIX BEIDERBECK (1903~1931)」のヒット曲の一つに「バージニアのお家に帰ろう/I'M COMIN' VIRGINIA」と言うのがありますがこちらは時代が変わり奴隷の子孫も既に四代目となり、心の中に自分が生まれ育った「バージニア」を本当の故郷としていた黒人も数多くプラントの作曲した「CARRY ME BACK…」とは違ってこの曲は多くの黒人にも理解され愛されたのです。
バイダーベックはこの曲をヒットさせた事で黒人演奏家からも高い評価を得、ジャズプレーヤーやジャズファンを数多く作り恐らく彼は最初で最後の「黒人プレーヤーさえもが模範とした白人ジャズプレーヤー」として後世に語り継がれています。
奴隷の運命
18世紀初頭N.Oで始まり全米各地に連れて行かれた数多くの黒人奴隷初期世代の"真"の境遇については皆さん既にご存じの通り全てが想像を絶する苛酷で悲惨そのものだったのです。
(何しろ人として認められていなかったのですから!)筆者がたまたま立ち寄ったプランテーションのフランス人農場主は「カトリック教」を大切にしていたのでこんな心暖まる光景に巡り会えたと安易に思っていたのですが、アメリカ社会の人種差別問題は実に根深くそんな表向きに写る光景と内側に潜む現実には大きな違いがある事を後になって思い知らされます。
この強烈な「人種差別」が為されている社会で一部のカトリック教の人々が自分達の愛情を注ぎ育てた混血子孫「クレオール人」やその後の「ムラート人」は一般の「アフリカン・ニグロ奴隷」とは全く違うと当時の社会に強硬に訴え、主張したのですが、多数派のプロテスタント教の人々が主張する "唯一、白人のみが文明人で他の全ての有色人種は明らかに劣った人種" と決め付け南北戦争後解放された筈の「奴隷解放」も十数年後の1877年には政治の裏取引で悪名高い「ジム・クロウ制度(ミンス卜レル・ショーで最初にヒットした題材に登場の主人公の名前)と呼ばれる"有色人種差別法"が成立し、その日から「黒人」も「クレオール人」も「ムラート人」そしてアジア人も皆、苛酷で悲惨な人生を歩かされる事となります。
黒人を庇(かば)う白人
近年のアメリカでは白人社会の人種差別が実に巧妙に仕細まれていて例えば白人大統領がテレビ等に登場する表向きでは必ず「大統領」の傍らに"みえみえ"の黒人を配列し、さもアメリカ社会には人種差別問題はまるで無く、問題は皆解決したかの様に装っていながら、その裏ではこの問題は「奴隷解放」以前と何等一つも変わっていないのが現実だとそれらの行為を暴露し始め、話題になっている白人アメリカ人も最近は多くなって来ましたが,・・・・・
黒人に写るフォスターの曲
フォスターの名曲の一つ「主人は冷たき土の中/MASSA'S IN DE COLD COLD GROUND」は通常の人としての心を持つ農場主の下で働かされていた奴隷が優しく思いやりの あるご主入を慕う光景を美しく描いたメロディーだと思っていましたが・・・、私の見たプランテーションの「書生部屋」にはこの時代でも宗教から離れ少しは人としての心を持って黒人奴隷に気を配る白人農場主もいたんだ!と。
手前勝手に思っていましたが、"どちらも白人社会を正当化する為の巧妙な『やらせ』"であって「この国の人種差別の歴史は昔から何一つ変わってないんだ!」と帰りの車の中で、白人アメリカ人の私の友人が呟いていました。
その彼が「これは事実だよ!」と私にサゼッション(忠告)してくれたのが次の一章、【何れにせよ白人にとって黒人は只々奴隷!この国の白人は巧妙に苛酷な虐げを刻み込んでいるだけ!】 ここの下りは「宗教」と「人種差別」と言う白人社会では最も危険な'タブー"領域でこれ以上は立ち入る事が出来ません。
どうぞ皆様補足してお読み下さい。
黒人扱隷とゲイ社会
最初の方でお話した数ある農場主の中には奴隷の家族構成に気配りする人や屈強な男性奴隷に女性をあてがう政策等に気を配る人もいたのですが、殆ど全ての農場主に共通していたのは己の収益⇒(銭)を権保する為の労働力として奴隷を買いこみ酷使するばかり、そこには相手の事や思いやり等銭以外の考えは全くありません。
遠いアフリカから鎖の足かせをつけられ劣悪な環境の暗い船底に長旅でN.Oの港に着く前に立ち寄る西インド諸島方面で売られて行った数多くの、(推定で600万人を超えると言われている)奴隷達の多くは労働力確保の男性だけでしたので彼等の社会ではブーズー教と共に「ゲイ」が広まったのです。
黄色い旗
N.Oの繁華街「F(フレンチ)・クゥオーター」界隈を歩いてちょっと注意して見ると実に多くの「ゲイ」を誇示する黄色い旗を掲げた店がありますが、西インド諸島出身の多くのニグロが経営している店が多いのです。
一握りのカトリック教農場主以外の農場に売られて行った奴隷や只銭を掻き集める事に狂っている「アメリカン・ドリーム」とか言う訳の分からない身勝手な白人の御旗の基に只々「銭と名声」だけに心を奪われる心無い北部のケンタッキーやバージニア州に多いアメリカ人気質丸出しのプロテスタント系農場主や、フランス人と雖(いえど)も何よりも「只目先の銭儲け」だけに終始する農場主達の奴隷への対応は想像を絶する苛酷で陰惨なものだったのです。
貴方がそこにいたら?
こんな下らない身勝手な事をぐたぐた述べて、これでは全ての宗教家の皆さん、プロテスタント教の皆さん、西インド諸島の男性他、多くの読者からお叱りを受けると思われますが、決してその国の人を蔑視したり、その時代の出来事を非難しているのではありません。
因みに、この時代この社会環境下で貴方がそこにいたら果たして皆さんは「黒人奴隷」とどの様に接していたでしょうか?
ケンタッキーの我が家
フォスターのもう一つの名曲「ケンタッキーの我が家/MY OLD KENTUCKY HOME」の中の「OH!WEEP NO MORE MY LADY!」と言うくだりから、ここの農場主がアメリカン・ ドリーマー病に冒された「銭儲け人間」だったのが想像出来ます。
フォスターは「もう、お嬢さん!泣かないで!」と歌詞を書いていますが深く入るとその家のお手伝いさんとして買われて来た黒人奴隷の女の子がそそうをしたり失敗する度に厳しい「ムチ打ち」をされお仕置きされる心無い「銭儲け社会」の現実の光景を、あの美しいメロディーを使って世に訴えていたのですが、"この問題の奥は実に深く"・・・です。
いづれにせよ殆どの黒人がフォスターの曲を表面的には喜べない理由がここにも潜んでいるのです。
(その3) フレンチ・クゥオーター
空港での歓迎演奏
拡大(2008年撮影) ルイ・アームストロング国際空港
Author:Flickr photographer Dieter Karner
出典:ウィキメディア・コモンズ
今回のN.O旅行は実に素晴らしいの一言、東京浅草の「おかみさん会」会長の冨永照子さんが突然「N.Oに一緒に行かないか?」と言うので喜んで同行、アトランタ経曲でN.Oの「ルイ・アームストロング空港」に到着し二人が機外に一歩、足を踏み出したら突然「聖者の行進」の生演奏が始まり、さすがここはN.O!と感心しながら前を見て驚いたのはこの「WHEN THE SAINTS GO MARCHIN' lNN」の生演奏をしていたのが何とおかみさんが、毎年夏に浅草公会堂での公演始め日本全国ツアーをするあのジャズの聖地「プリザベ ーション(保存)・ホール」の大御所、トランペッターの「J(ジョン)・ブルーニアス」さんが彼の「N.Oオールスターズ」の仲間達と共にやって来ての歓迎演奏、到着ロビーから駐車場迄の長い距離をパレードし、ご機嫌な今回の旅の幕は華々しく上がった。
クレオール人の心
こんな素晴らしいパレ一ドに酔っている中でここは明らかに日本と違うなと感じたのは空港内の誰もが皆陽気にリズムに合わせて踊り出し、何と空港職員さえも皆楽しみながらこの生演奏を満喫しながら踊りに加わって来てここは正にジャズの故郷N.Oなんだなとはっきりと感じる事が出来た。
これは後で聞いた話で、今回この歓迎演奏を実施する為の空港への許可申請書類はハンパな量では無かったと言う事で「本当のクレオール人」J(ジョン)・ブル一二ァスさんの心暖かさに脱帽。
最初の入植者
「キャナル・ストリート/CANAL St」(南北)「ランパート・ストリート/RAMPART St」(東西)「エスペランド・アベニュー/ESPERANDO・AVENUE」(南北)それにN.Oの象徴でもある「ミシシッピー河」(東西)で囲まれた四角い一帯がジャズで溢れる大繁華街『F(フレンチ)・クゥオーター』全ての通りには一つ一つに物語が存在し由緒あるネーミング(名前)がついています。
私が宿泊したホテルの直ぐ近くには「IBERVILLE・St(アーヴァビル)」と「BIENVILLE・St(ヴィエンビル)」と言う二つのストリートがあり、1700年初頭(18世紀初頭)兄の「アーヴァビル」がミシシッピー河から小高い高台のこの地を見つけ小さなフランス植民地を設けた所からN.Oの町の歴史が始まり弟の「ヴィエンビル」と共にこの兄弟二人が町作りに大きく貢献、ここの通りに彼等の名が残されている事を知る。
ブレナンで朝食を!
(BREAKFAST AT BRENNAN'S)
拡大ロイヤルストリートのブレナンレストラン
Photo by Infrogmation
出典:ウィキペディア
骨董品店や土産物店が軒を連ねる「ロイヤル・ストリート/ROYAL St」の古き良き南部を忍ばせる「OLD SOUTH」の料理で有名な"ブレナン"にN.O在住三十年以上のミツコさんと冨永おかみさんの三人で朝食をしに出向いた。
19世紀初頭からこの店のお薦めは卵料理でこの地の建物の特色である広い中庭を持つ石畳の床を一歩一歩踏みしめ奥へと進む、壁には1800年代物のランプの照明器具、そして当時の家具がそのまま残っていて19世紀初頭へタイムスリップの感じがする。
オードリー・ヘプバーン主演で有名になったハリウッド映画の傑作「ティファニーで朝食を」は日本でも有名ですが、この「どこどこで朝食を」と言うのはここの「ブレナンで朝食を」が源で、当時この店の直ぐ向かいに悪名高い「奴隷市場」がありミシシッピー河14州にまたがる綿花畑農場主は奴隷の買い付けの度にこの地を訪れ、その前後には必ずこの店で普段は余り口にする事の無い卵をふんだんに使った美味しいフランス料理を食べながら「おらが国自慢」とあらゆる情報交換をする、そんな社交の場としてこの店が人々に知られていったのです。
つまりここで食事が出来る人とは一端(いっぱし)の金持ちの農場主である証だったのです。
我々を充分楽しませてくれたここの朝食のセット料金は一人$35.00チップを含めると、お一人約五千円!勿論この支払いは冨永おかみさんが払ってくれた。
(ごちそう様)
小泉八雲とブーズー教
拡大映画「欲望と言う名の電車」に登場したストリ一トカー
Author:Robert Kaufmann
出典:ウィキペディア
N.Oと言えばテネシー・ウイリアムズの小説「欲望と言う名の電車」が有名ですが、小説家として日本でも良く知られている「小泉八雲⇒ラフカディ・ヨハーン」が日本に来る前に住んでいたのがこのN.Oでした。
彼は若い頃新聞記者の時代に世界の各地に赴きその際特に世界の密教に興味を持ち、中でも「ブーズー教」に強く心を奪われ西インド諸島も度々訪れその後N.Oに定住します。
この西インド諸島の各地にはアフリカから奴隷船で連れて来られた黒人が多く彼等が愛した宗教はキリスト教では無く「ブーズー教」だったのです。
マリー・ラブュー
ブーズー教とは1800年代初頭、人々から『ブーズー・クイーン』と呼ばれていた「マリー・ラブュー/MARIE LAVEAU」によって一代勢力が作られその後、彼女の娘によって引き継がれ約六十年間活発な活動が続き1850年代にそのピークを迎えた代表的黒人宗教の一つです。
今ではN.Oだけで無く広く世界中に多くの信者を持っています。
赤いフラノ地のブーズー信者手作りバッグは「グリ・グリ・バッグ」と呼ばれブーズー教信者の必需品です。
南北戦争の北軍勝利によって「奴隷解放」が実施されると西インド諸島各地から多くの黒人がN.Oにやって来ます。
それ故「F・クゥオーター」界隈には数多くのブーズー教の品を扱っている店が見られるのです。
このロイヤルストリートの一角には「小泉八雲」が住んでいた家も現存していてそこも今ではブーズー教の品を扱っている店となっています。
今でも時折ブーズー教独特の激しいダンスの集会を一昔前迄は「コンゴー広場」と呼ばれていた「ルイ・アームストロング記念公園」の中で見られます。
デキシーランドの作曲者
拡大キャナルストリートのワーリェン・ミュージックビル
1990年代にレストランに替わった Photo by Infrogmation
出典:ウィキペディア
既に紹介しましたアメリカで二番目に大ヒットしたと言われる、1753年に書かれた流行歌「デキシーランド』の作曲者「フィリップ・ワーリェン/PHILIP WERLIEN」は祖国ドイツからこの地に来た時にアメリカ北部には素時らしい歌が数多くあるのに、この南部に無いのが寂しいと自らこの曲を作ったのでした。
彼は20世紀初頭アメリカで最初のクラシック音楽以外の楽譜出版社を設立、ジャズ発展に実に隠れた大きな仕事をしました。
(当時はレコードもラジオも無く、音楽を伝達するには譜面の力が全ての時代)この彼が経営する譜面専門店が数年前迄「F(フレンチ)・マーケット」の傍らに存在していたのですが残念な事に現在は無くなってしまいました。
セントルイス・カセドラル教会
拡大町のシンボル「セント・ルイス大聖堂」
Author:Barry haynes
出典:ウィキメディア・コモンズ
市の中心の"臍(へそ)"として位置するのはジャクソン広場対面の「セントルイス・カセドラル教会」で、そこからミシシッピー河沿いに走る「デカータ・ストリート」を東から西に「F(フレンチ)・マーケット」「ギフト・ショップ」「ジャクソン・ブリューワリー」、更に河沿いリバーウォークには観光客相手の数多くのアーケードや水族館等がある。
「F・マーケット」と水族館周辺の海沿いに観光用の路面電車が往復していて気軽に利用出来る。
ミシシッピー河の上ではご機嫌な「デュークス・オブ・デキシー/DUKES OF DlXIE」の生演奏が楽しめる『ナッチェス』等の観光遊覧船の乗り場は「ジャクソン広場」と水族館周辺から毎日午後出港。
どの通りにもジャズが溢れるフレンチ・クゥオーター
「F(フレンチ)・クゥオ一ター」の外れ第38街区にあった紅灯街「ストーリービル」の入口「ベィズン・ストリート/BASIN St」を過ぎ「F・クォーター」に入って行くその南北に連なる最初の長い通りは「ランパート・ストリート/RAMPERT St」、この通りは「キャナル(運河)・ストリート/CANAL St」の遥か向こう迄続く通りでこの「キャナル・ストリート」から「F・クゥオ一ター」の北側が「NORTH RAMPERT St」でその反対側が文字通り南側「SOUTH RAMPERT St」です。
所で、ランパートとは"城壁"の事で今では取り壊されて実際に見る事が出来ませんが以前はここに二つの大きな城壁が存在していたのです。
さて、お城は存在しないのに何故ここに大きな城壁が作られたのでしょうか?
それはこの地区を「F・クゥオ一夕一(植民地)」と決めたその当時のフランス人の町作りの考え方に「先ず外壁を固め、外敵から身を守る」と言う常識があった為なのです。
どの通りに行っても一つ一つ物語が存在する様に、どの通りにも素敵なデキシーメロディーが存在します。
ニュートラル・ゾーン
「キャナル・ストリート/CANAL St」とは当初ここに大きな運河を作る予定でしたが実施に至らずそこはだだっ広い道路となり(一時代では南部一の広い道路として人々に知られていた)この呼び名だけが残りました。
やがて1803年にこの地が合衆国となるとこの新天地に夢を求め数多くの「アメリカ人」がやって来ますが当然の様に既存の「F・クゥオ一夕ー」住民との間に紛争の火種が尽きなかったので人々はこの「C・ストリート」に境界線を設け「ニューカマー/NEWCOMERS」と称される人達の生活領域をその南側に作り様々な問題解決を図りました。
いきなり異文化、異人種が入って来ると様々な問題が派生した為に当然の如くこの様な処置が為され「C・ストリート」は双方の問題解決の交渉の場として大変重要な意味を持ち、人々はここを「ニュートラル・ゾーン/NEUTRAL ZONE=中立地区」と呼んでいます。
今でもこの通りを散策すると南側と北側では全ての趣が少し違います。
ここを歩くと1922年に「K(キング)・オリバー」と「L(ルイ)・アームストロング」によって作曲されたと言われる「キャナル・ストリート・ブルース」が聞こえてきそうです。
サウスランパ一ト・ストリ一ト
更にこの通りの南側に足を進めて行くと生粋のN.O生まれの白人デキシーグループ「ランパート・ストリート・バレーダース/RAMPERT STREET PARADERS」の初代ドラマー「レイ・ボーデュック」と日本でもお馴染みそして、あの「ファッツ・二ュー/WHAT'S NEW?」の作曲者でもあるベーシスト、「ボブ・ハガート」によって1937年に書かれたデキシーの名曲「サウス・ランパート・ストリート・パレード/SOUTHRAMPERT STREET PARADE」の明るい雰囲気がそのまま味わえます。
正にこのランパート南側通りのパレードの光景が描かれた名曲です。
永遠の破滅ストリート
「D(デューク)・エリントン楽団」の「ホファン・ティゾル」と「ハリー・レンク」が1941年に作曲し、1944年「ルイ」の演奏で一躍有名になった「パーディドゥー/PERDIDO」このタイトルは何と"永遠の破滅"と言った意味ですがこんなネーミングをどうどうと使った「パーディドゥ・ストリート/PERDIDO St」はキャナルの南側の奥に位置し、ここは「L・アームストロング」の生まれた場所として知られていますが当時のこの一帯はその名の通り数多くの黒人達とニューカマーの貧民窟が多いスラム街だったのですが今は全くその面影は見当たりません。
古き良き時代を留めるF(フレンチ)・クゥオーター
現在「F・クゥオ一ター」の全ての建物は日本で言う重要文化財扱いとなり建物の内側の内装改築、改造は可能ですが外観は全て保存対象物に指定されているので昔のままで、この通りを歩くと今でも華やかだつた一時代を忍ぶ事が出来ます。
この町の中心の通りと言えば今も昔も変わらずセクシーで、ケバケバしくしたたかなバイタリティーに溢れているのが「バーボン・ストリート(ウィスキーとは関係無し、フランスのブルボン家の流れ)/BURBON St」でここは正に、クレオール人がコツコツと築いた町そのものです。
ここでは「ポール・バーバリン」が1951年に書き直したトラディショナル曲、あの「バーボンストリート・パレード/BOURBON St PARADE」の雰囲気が実にぴったりします。
ベイズン・ストリート
デキシーランドジャズ最高傑作の一つとして知られる「ベイズン(穴ぼことか水溜まりの意)ストリート・ブルース/BASIN St BLUES」は「スペンサー・ウイリアムズ」1928年の作曲。
この曲は「ルイ」によってヒットしますが、その後テキサスからやって来た巨星!名トロンボーン奏者の「ジャック・ティーガーデン/JACK TEAGARDEN」の持ち歌としても有名で.ジャックが歌うこの曲の出だし「WON'T YOU COME ALONG WITH ME!」のパートはその後のこの曲の代名詞となり、どの演奏家も必ず演奏しますがこの作曲は「グレン・ミラー/GLENN MILLER」です。
バーガンディ・ストリート
ジョージ・ルイス Photo by Stanley Kubrick
published in "Look" magazine,June 6,1950
出典:ウィキペディア
1800年生まれのN.Oジャズの名クラリネット奏者「ジョージ・ルイス/GEORGE LEWIS」の唯一の作曲と言われる彼が生まれ育った町の通りを描いた美しいメロディー「バーガンディ(フランスの地名・赤ワインの代名詞)ストリート・ブルース/BURGUNDY St BLUES」は南北に走る「ランパート・ストリート」の次に位置する通りで、東西をクロスして行くこの通りは「セント・ピ一夕ース/St' PEATERS St」「オリンズ/ORLEANS St」「セント・アン/St' ANNE St」「デュメイン(フランス王族)/DUMAEIN St」そして「セント・フィリップス/St' PHILLIPS ST」と順を追ってここの通りの情景をあのメロディーで表現しているのです。
市の花はマグノリアス
拡大ベニー・グッドマン
出典:ウィキペディア
『スイング王/THE KING OF SWING』「B(ベニー)・グッドマン/BENNY GOODMAN」の演奏で一躍有名になった「セント・フィリップス通りの散策/St' PHILLIPS St BREAKDOWN」は「ランパート、バーガンディ、バーボン、ローヤル等の通りを東西に縦断している賑やかで楽しい通りで、この曲を口ずさみながらここを散歩すると気分は最高!
どこを散策しても5月のこの時期はN.Oの市の花となっている「キョウチクトウ」⇒「マグノーリアス」(N.O市のロゴマーク)が美しく咲き乱れ、何もかも皆デキシーメロディーを持っていて実に楽しく正にここは『デキシーランドジャズ』の故郷なんだと実感させられる。
ニューオーリンズのタイトルがつく曲
『ジャズ』発祥の地「ニューオーリンズ」の名のついた『デキシーランドジャズ』スタンダード曲も数多い。
☆「ニューオーリンズ」(NEW ORLEANS)
1932 HOAGY CARMICHAEL
「スターダスト」を作曲したH・カーマイケルはご当地ソングも数多く、ジョージア州を歌った「我が心のジョージア」とこの「ニューオーリンズ」は特に有名、50年代の名コルネット「B(ボビー)/BOBBY HACKET」が名演奏をしている。
☆「ニューオーリンズ去り難し」(DO YOU KNOW WHAT IT MEANS TO MISS NEW ORLEANS)
1946 LOUIS ALTER
EDDIE DE LANGE
映画「ニューオーリンズ」の主題歌として「ビリー・ホリデイ」の名を一躍世に広めた美しいメロディー、この映画にはジャズの『神様』ルイ・アームストロングも共演している。
☆「ニューオーリンズ遥かなり」(WAY DOWN YONDER IN NEW ORLEANS)(YONDERとは遠く離れもう戻るのは難しい遥かと言う意味がある)
1922 J.TURNER LAYTON
HENRY CREAMER
紅灯街閉鎖でニューオーリンズを去らねばならない辛いバンドマンの心を!このコンビのもう一つの傑作は戦地に出向いた兵士を想うアメリカ版「灯」の「君去りし後/AFTER YOU'VE GONE」
☆「ニューオーリンズ・シャッフル」(NEW ORLEANS SHUFFLE)
作者不詳
この曲は余り馴染みのある曲では無いがミシシッピーの外輪船がのんびりと水を掻き(SHUFFLE)進む光景と船室で「カードギャンブル/CARDS SHUFFLE」する二つの"シャッフル"を粋に表現、一度聞くと虜になる名曲。

2「Vol2.ニューオーリンズよもやま話」はここまで
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