Volume 2
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フレンチクォーターのプリザベーション・ホールの看板
「Volume 1」の(その1)から(その3)では、N.Oの町の歴史と20世紀に入った「ジャズ誕生」のお話でしたが、多くの読者からN.Oの話が面白かったのでもっと多く取り上げて欲しいと言われましたので、今回はその線で話を進めて参りましょう。
デキシーランドジャズを知り、楽しんで行くとその演奏スタイルが実に数多いのに驚かされます。
ちょっと話が脱線して恐縮ですが、中国料理を例にとってお話をしますと、ある人の中国料理とは「北京」料理を意味し、ある人の中国料理とは「広東」料理を意味し、「四川」「上海」「客家(はっか)」「福建」「山東」「蘇州」「香港」「台湾」、仮にこれこそが中国料理の源流だとしても、それすら無数に存在しそこにその時代の作法やしきたり等の違いを加味し「皇帝料理」「家庭料理」「接客料理」等々と分類していったらそれこそキリがありません。
良くデキシーランドジャズが大好きになり親しんでいくと必ず「N.Oジャズとデキシーランドジャズの違いは何?」と言った様なテーマが論議されますが、これも百人の評論家がいれば百通りの意見が出て当り前です。
クレオール人とは白人と黒人の混血の人達の一般的な呼び名ですが、N.Oの町をフランスが統治していた頃のフランス人、スペイン人農場主や農場関係者の白人達と黒人奴隷女性との間に生まれた一握りのクレオール人の子供達の中には特別なエリート扱いを受けフランス留学をさせる事等が大いに流行った時代があります。
東京浅草の「全国おかみさん会」会長の冨永照子さんが毎年夏に既に二十数年続けている「N.Oジャズ・オールスターズ」の日本公演ツアーのメンバーはN.OのF(フレンチ)・クォーターの名所「プリザベーション(保存)・ホール/PRESERVATION HALL」で活躍している正にクレオールの子孫達で構成され、リーダーの「ジョン・ブルーニァス⇒ウェンデル・ブルーニァス」(10年間は兄のジョンが勤めた)さん始めメンバーの大半は生粋のクレオール人で「クレオールジャズの香り」が充分楽しむ事が出来ます。
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キッド・オーリー・クレオール・ジャズバンドのクレセントレコード
ジャズ誕生の初期段階でクレオール人の残した功績は実に大きく、「バディー・ボールデン」「フレディー・ケパード」「ジミー・ヌーン」「キング・オリヴァー」「バンク・ジョンスン」「キッド・オーリー」「ジェリー・ロ一ル・モートン」「シドニー・ベシェ」他多くの開祖者は皆このクレオール人で、デキシーランドジャズの名曲「マスクラット・ランブル/MUSCRAT RAMBLE⇒ジャコウ鼠の散歩」の作曲者として知られる名トロンボーン奏者「E(エドワード)・キッド・オーリー/EDWAED KID ORY」はこの伝統ある「B(バディー)・ボールデン」⇒「K(キング)・オリヴァー」から受け継いだ自分のバンド名「クレオール・ジャズバンド/CREOLE JAZZBAND」を生涯踏襲しました。
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独り立ちして行くジャズ
この様に「ジャズ」の初期は正に「ジャズ」の権利そのものはムラートと呼ぶばれるクレオール人の独占事業だったのですが、1917年4月にアメリカの第一次世界大戦参入が正式決定、それ迄二十一年間クレオール人によって未曾有の栄華を極めていた「紅灯街⇒ストーリービル」が突如閉鎖されてしまった事、そして1920年代に入り華々しく世に登場するあの天才トランペッター「ルイ・アームストロング」(彼はクレオール人では無い)の台頭等でそれ迄栄華を独占して来た "ジャズ" はクレオール人の手を離れ一人歩きして行くのです。
バンク・ジョンスン(1879~1949)
クレオールジャズの先駆者「B・ボールデン」「F・ケパード」「B・ジョンスン」達の若き日のサウンドは録音技術が無く残念ながら残ってませんが1917年コロンビア社とビクター社が始めた電気録音方式のSP盤レコードで「ジャズ」が世に知れ渡った暫く後に創成期のジャズに関しての機運が盛り上がり、その時点で生存していた「B・ジョンスン」や「F・ケパード」の(既に若くは無い)枯れた貴重な演奏録音が残っていますが第一人者である「B・ボールデン」のサウンドは残念ながら残っていません。
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レコードの独禁法裁判
「ODJB/オリジナル デキシーランド ジャズバンド」を起用し大成功を収め世に登場したSP盤レコ一ドは当初「コロンビア」と「ビクター」の二社だけが市場を独占していましたが
1918年に「ジェネット」社が独禁法裁判を起こしその裁判に勝った結果、市場には実に沢山のマイナーレーベルが誕生しそこで数多くの録音がされますが、この時代は未だ録音技衛の問題や著作権問題、販売ルート問題を始めとしたレコード業界の問題点の整理等に時間が費やされ実際に販売に至った物は少なく、SPレコードの市場への本格的稼働は実質的に1920年代に入ってから凄まじい勢いで始まりレコード会社(レーベル)は一気に五十社近い数に達しました。
「コロンビア」社と「ビクター社」で歴史上初のジャズ録音をした白人の左利きコルネット奏者「N(ニック)・ラ・ロッカ」の「オリジナルデキシーランドジャズバンド(ODJB)」の演奏は間違い無くN.Oを音源としていますが人々からはN.Oジャズとは呼ばれずむしろ「トラッド/TRAD(古典の)ジヤズ」とか「デキシーランドジャズ」と分類ざれています。
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デキシーランドジャズの名付け親トム・ブラウン
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1910年代はじめのトム・ブラウン
ここに一つ、実に面白い話が残っています。
ここから、この新しいスタイルの音楽が若者に大ブームとなり、「デキシーランドジャズ」と言う呼び名が一躍巷に知られる様になります。
「ビクター社」の大ヒットで白人社会にデキシーブームが巻き起こると黒人達は白人ジャズに鼻持ちならぬ感覚を抱き必然的に彼等の心に直結する白人のサウンドでは無い黒人向けのレコーディングを開始します。
「ルイ・アームストロング」は間違い無くN.Oの貧民層の黒人が多く住む「パーディドゥ通り/PERDIDO STREET」で生まれ、少年時代のお祭りの際浮かれ、羽目を外しピストルをぶつ放したとして少年院送り(これは黒入差別社会では良くある作り話)となり、そこでコルネットを習得し退院直後あこがれの「K(キング)・オリヴァー」の指導を受け、蒸気船の上で本格的なクレオールジャズを体得し、後のN.Oとジャズの象徴⇒『ジャズの王様』となる人です。
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ルイの初録音
新参入でレコード界ではマイナーレーベルの「ジェネット/GENNETT」社や「オーケー/OKEH」社の名を一躍世に知らせ占めたのは「B(ベッシー)・スミス」や「M(マミー)・スミス」他の女性ブルース歌手達に加えて若き日のあの天才コルネット吹き(この時代にトランペットという楽器がまだ世に出ていない)「L(ルイ)・アームストロング」でした。
「ルイ」は1923年から1925年の3年間に実に数多くのレコーディングをし、1925年11月に彼が初めてリーダーとなる歴史的バンド、「ホット・5(ファイブ)/HOT 5」を結成し大反響を呼び起こします。
N.Oから傑出したジャズの天才「ルイ」が歴史に残した功績は実に多大なもので、当然、N.Oの町に行けぱ沢山の記念物に出会える筈!と期待し胸を弾ませて行きますと、確かにN.Oの空港は彼の名前が使われているのと「F(フレンチ)・クゥォーター」の入口に存在する「ベイズン・ストリ一ト/BASIN STREET」の傍らにある一昔前は「コンゴー広場/CONGO SQUER」として人々に知られていた有名な広い一角が今では「ルイ・アームストロング記念公園」となって人々に知られていますが、彼がクレオール人では無かったので偉大な彼の足跡を市の中心、「F・クゥオーター」の中で見い出そうとすると以外とそれが難しいのです。
N.Oの話で、ふと知りたくなったのがその当時市に届け出をしていた2,200人いたと言われるストーリービルの「夜の蝶々さん」のお値段についてで、それを知るにはよそ者、特に日本人には大変危ない地区なので "独りでは絶対行くな !" と地元の人達にきつく言われていた「L・アームストロング記念公園」の隣の「ベィズン・ストリート」の町に潜入しなければ知る手立ては無いと思い、朝早く友人から借りた自転車に乗って独りでその「危険地区」に出向いて見ました。
「さて、そのストーリービルの売春宿では必ずと言っていい程 "ジャズ" が演奏されていたのだが、それにはそれなりの訳があったんだよっ !」とクリフお爺ちゃんの話はどんどん続きます。
「時として人種の違いや好み等から女の方でその客が受入れられなかったり、金額面で揉める事が屡々(しばしば)、その客が金持ちか貧乏か常連客か一見(いちげん)客か等々の判断を瞬時にして対処し」「若しもそのお客が一見で金持ち!と判断したら飛び切り高い女の値段をつけ、店一番の美女を用意し最高の部屋 "ローズ・ルーム" にご案内するし、」「その反対の超貧乏が来ても決して追い返したりせず(そんな事が揉め事の要因)それなりの価格とブス女を提供し、道路脇で毛布一枚と言う条件で話をまとめたりする」「だから、あんたが知りたい "夜の蝶々さん" の一定の値段なんぞは存在しなかったのだが、こう云った賭事的やりとりが巷では結構評判を集めていたので売春宿の成否はピアノマンの腕次第!とさえ言われたそうだよっ」「この様にお客にとってもそして "夜の蝶々さん" にとっても極めて大切な存在だったバンドマン、取り分けピアノマンは大いにもててもてて、その結果殆どが重い梅毒に冒され、皆早くにおっちんじゃったのさっ!」とクリフお爺ちゃんは皺皺の顔で笑って話をしてくれた。
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マホガニー・ホール
1900年 ルル・ホワイト
クリフお爺ちゃんに20世紀初頭にここ「ベィズン・ストリート」の一角で話題となった白人美人「ルル・ホワイト」が経営していたと言われる当時の最も有名な売春宿「マホガニー・ホール」はどの辺りですか?と尋ねたところ、お爺ちゃんの返事は「それについては私は知らない!」と、ここで改めて百年と言う時の長さを実感させられました。
クリフお爺ちゃんの話で判る様に、ジャズ発祥の源と言うと一般的に「ちょっと怪しい場所」から生まれ出て来たと言うマイナー感覚の説が常識となっていますが、最近になって売春宿で演奏されていた質の音楽とジャズの源となった質の高い音楽誕生のキッカケを生み出したのは全く異質な場所の異質な音楽だったと言う説が唱えられています。
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筆者が立ち寄ったニューオーリンズの「砂糖きびプランテーション」の1787年に建てられた母屋、ここの二階で『書生の部屋』を見る
N.Oの生い立ちや黒人奴隷の話になると、この地では数多くの綿花畑やコーン(とうもろこし)畑が存在し、黒人奴隷が沢山使われていた「プランテーション(農場)」が数多く存在していると思われがちなのですが、意外な事に綿花やコーンは河口のデルタ湿地帯のN.Oでは全く栽培出来ないのです。
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南北戦争以前の奴隷州
南部の主要産物、綿花の栽培地帯と言うのはミシシッピー河流域のN.O市のあるルイジアナ洲の北部から始まりジョージア、ミシシッピー、アラバマ、アーカンソー、ケンタッキー、バージニア、テネシー他l4の州にまたがる広大な地域で、その扇の要の一大貿易港N.Oはそれらの地域で産出した "綿花" の物流拠点地として栄えたのでした。
さて、ここでとんでも無い話を一つ、時のフランスの成り上がりで無知、無能のボンボンの王子様と言うのが無類の賭事大好き人間で、ある日これ又スペインの成り上がり王子様と知り合いになる。
いつの時代でもそうですが、たった一人の人間の我儘と言うのは言葉では語り尽くせない程実に恐ろしくそして実に愚かな物ですが、歴史の舞台裏ではこんな「とんちんかん」な賭け事等が数多くなされて今日の世界が存在しているのです。
N.Oはルイジアナ州南東部ミシシッピー河の河口から約170Km上流のデルタ地帯に発展した町で,この地形から別名"クレッセント・シティ/CRESCENT CITY⇒三日月の町"と呼ばれここは世界の海の玄関口として名高くこの地に住む人々は世界と繋が
る大きな海とミシシッピーと言う大河の恩恵で成り立っているので高い山とは余り縁がありません。
さて"山"と無縁となると"木"が無い"石"が無いと様々な問題が出て来ます。
「F(フレンチ)・クゥオーター」を出てミシシッピー河づたいに暫く車を走らせると「倉庫地区」と言うとてつもない広い空間が登場して来ます。
未だ写真が普及していない1835年頃の綿花を大量に扱うニューオーリンズの港湾労働風景
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世界中から何でも手に入ったニューオーリンズ
「砂糖きびプランテーション」の中の富豪の屋敷の二階で「ここは富豪の娘さんの部屋です」と案内されて入って行って私は意外な物を目にし、びっくりしました。
この様にこの時代のN.Oは既に世界中のどの港とも直結していて「陶器」が欲しければ中国から、何々が欲しければどこどこの国からと「お金」さえ払えば何でも自由に手に入る現代社会と同じ構図が既に出来上がっていた事がこの「蚊帳」一つから察する事が出来ます。
娘さんの部屋とは別の部屋が書生奴隷(ムラート⇒クレオール人)の部屋と知りこれ又、びっくり、ここではフランス人農場主の感覚がしっかりと存在していました。
奴隷に対する感覚の違いには大きな歴史の違いがあり、実に複雑な要素がからんでいます。
奴隷に対し最悪なのは"一般アメリカ人"と称される多数派の「イギリス系」の人としての心等一切無い「プロテスタント教」がもたらす物の考え方で、(ヨーロッパでは既に古くから奴隷制度が存在していた)「奴隷とは道徳的に弁護の余地の無い堕落した人間!」と、全ての宗教共通の只手前勝手な自己中心、自己美化、自己評価、自己判断で凝り固まった実にアホで間抜けで間違いだらけの発想で「白人の我々だけが優れた入間!」と人としての心等全く無い最低最悪な解釈をし"奴隷とは肉体だけで無く精神さえも支配しなければ生きて行けない劣った人聞!"と決めつけ日々どうどうと実践していたのです。
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歴史は繰り返す
少し話が脱線しますが、この時代から2世紀後の21世紀、2003年に国連安保理の採択を一方的に無視して中近東諸国に戦争を強硬し続けるアメリカ、それに伴う各国の見解の相違で特に注目されるのがフランス、イギリス、スペインの主張でご存知の通り、戦争を強硬するアメリカにフランスは非難の立場に廻り、イギリスとスペインは何となくアメリカに同調と言った姿勢が見られますが、ここではそれより2世紀以前のアメリカ国内で起きていた奴隷に対する感覚対応と全く同じ構図がくり返されているのが良く解ります。(正に歴史はくり返す)
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白人讃歌
1712年から始まった「奴隷貿易で」アフリカから強引に連れて来られN.Oの町の中心の悪名高い「奴隷市場」でムチで打たれ売買され、全米各地に連れて行かれた数多くの奴隷達に対して当時の白人社会は彼等に何一つ同情すると言った気持ち等は一欠片(かけら)も見られませんでした。
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B・バイダーベック
1931年ジャズ史上最大の天才白人コルネット奏者、若く(28歳)してにの世を去った「ビックス・バイダーベック/LEON BIX BEIDERBECK (1903~1931)」のヒット曲の一つに「バージニアのお家に帰ろう/I'M COMIN' VIRGINIA」と言うのがありますがこちらは時代が変わり奴隷の子孫も既に四代目となり、心の中に自分が生まれ育った「バージニア」を本当の故郷としていた黒人も数多くプラントの作曲した「CARRY ME BACK…」とは違ってこの曲は多くの黒人にも理解され愛されたのです。
18世紀初頭N.Oで始まり全米各地に連れて行かれた数多くの黒人奴隷初期世代の"真"の境遇については皆さん既にご存じの通り全てが想像を絶する苛酷で悲惨そのものだったのです。
近年のアメリカでは白人社会の人種差別が実に巧妙に仕細まれていて例えば白人大統領がテレビ等に登場する表向きでは必ず「大統領」の傍らに"みえみえ"の黒人を配列し、さもアメリカ社会には人種差別問題はまるで無く、問題は皆解決したかの様に装っていながら、その裏ではこの問題は「奴隷解放」以前と何等一つも変わっていないのが現実だとそれらの行為を暴露し始め、話題になっている白人アメリカ人も最近は多くなって来ましたが,・・・・・
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黒人に写るフォスターの曲
フォスターの名曲の一つ「主人は冷たき土の中/MASSA'S IN DE COLD COLD GROUND」は通常の人としての心を持つ農場主の下で働かされていた奴隷が優しく思いやりの
あるご主入を慕う光景を美しく描いたメロディーだと思っていましたが・・・、私の見たプランテーションの「書生部屋」にはこの時代でも宗教から離れ少しは人としての心を持って黒人奴隷に気を配る白人農場主もいたんだ!と。
最初の方でお話した数ある農場主の中には奴隷の家族構成に気配りする人や屈強な男性奴隷に女性をあてがう政策等に気を配る人もいたのですが、殆ど全ての農場主に共通していたのは己の収益⇒(銭)を権保する為の労働力として奴隷を買いこみ酷使するばかり、そこには相手の事や思いやり等銭以外の考えは全くありません。
N.Oの繁華街「F(フレンチ)・クゥオーター」界隈を歩いてちょっと注意して見ると実に多くの「ゲイ」を誇示する黄色い旗を掲げた店がありますが、西インド諸島出身の多くのニグロが経営している店が多いのです。
こんな下らない身勝手な事をぐたぐた述べて、これでは全ての宗教家の皆さん、プロテスタント教の皆さん、西インド諸島の男性他、多くの読者からお叱りを受けると思われますが、決してその国の人を蔑視したり、その時代の出来事を非難しているのではありません。
フォスターのもう一つの名曲「ケンタッキーの我が家/MY OLD KENTUCKY HOME」の中の「OH!WEEP NO MORE MY LADY!」と言うくだりから、ここの農場主がアメリカン・
ドリーマー病に冒された「銭儲け人間」だったのが想像出来ます。
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(2008年撮影) ルイ・アームストロング国際空港
今回のN.O旅行は実に素晴らしいの一言、東京浅草の「おかみさん会」会長の冨永照子さんが突然「N.Oに一緒に行かないか?」と言うので喜んで同行、アトランタ経曲でN.Oの「ルイ・アームストロング空港」に到着し二人が機外に一歩、足を踏み出したら突然「聖者の行進」の生演奏が始まり、さすがここはN.O!と感心しながら前を見て驚いたのはこの「WHEN THE SAINTS GO MARCHIN' lNN」の生演奏をしていたのが何とおかみさんが、毎年夏に浅草公会堂での公演始め日本全国ツアーをするあのジャズの聖地「プリザベ
ーション(保存)・ホール」の大御所、トランペッターの「J(ジョン)・ブルーニアス」さんが彼の「N.Oオールスターズ」の仲間達と共にやって来ての歓迎演奏、到着ロビーから駐車場迄の長い距離をパレードし、ご機嫌な今回の旅の幕は華々しく上がった。
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クレオール人の心
こんな素晴らしいパレ一ドに酔っている中でここは明らかに日本と違うなと感じたのは空港内の誰もが皆陽気にリズムに合わせて踊り出し、何と空港職員さえも皆楽しみながらこの生演奏を満喫しながら踊りに加わって来てここは正にジャズの故郷N.Oなんだなとはっきりと感じる事が出来た。
「キャナル・ストリート/CANAL St」(南北)「ランパート・ストリート/RAMPART St」(東西)「エスペランド・アベニュー/ESPERANDO・AVENUE」(南北)それにN.Oの象徴でもある「ミシシッピー河」(東西)で囲まれた四角い一帯がジャズで溢れる大繁華街『F(フレンチ)・クゥオーター』全ての通りには一つ一つに物語が存在し由緒あるネーミング(名前)がついています。
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ロイヤルストリートのブレナンレストラン
骨董品店や土産物店が軒を連ねる「ロイヤル・ストリート/ROYAL St」の古き良き南部を忍ばせる「OLD SOUTH」の料理で有名な"ブレナン"にN.O在住三十年以上のミツコさんと冨永おかみさんの三人で朝食をしに出向いた。
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映画「欲望と言う名の電車」に登場したストリ一トカー
N.Oと言えばテネシー・ウイリアムズの小説「欲望と言う名の電車」が有名ですが、小説家として日本でも良く知られている「小泉八雲⇒ラフカディ・ヨハーン」が日本に来る前に住んでいたのがこのN.Oでした。
ブーズー教とは1800年代初頭、人々から『ブーズー・クイーン』と呼ばれていた「マリー・ラブュー/MARIE LAVEAU」によって一代勢力が作られその後、彼女の娘によって引き継がれ約六十年間活発な活動が続き1850年代にそのピークを迎えた代表的黒人宗教の一つです。
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キャナルストリートのワーリェン・ミュージックビル
既に紹介しましたアメリカで二番目に大ヒットしたと言われる、1753年に書かれた流行歌「デキシーランド』の作曲者「フィリップ・ワーリェン/PHILIP WERLIEN」は祖国ドイツからこの地に来た時にアメリカ北部には素時らしい歌が数多くあるのに、この南部に無いのが寂しいと自らこの曲を作ったのでした。
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町のシンボル「セント・ルイス大聖堂」
市の中心の"臍(へそ)"として位置するのはジャクソン広場対面の「セントルイス・カセドラル教会」で、そこからミシシッピー河沿いに走る「デカータ・ストリート」を東から西に「F(フレンチ)・マーケット」「ギフト・ショップ」「ジャクソン・ブリューワリー」、更に河沿いリバーウォークには観光客相手の数多くのアーケードや水族館等がある。
「F(フレンチ)・クゥオ一ター」の外れ第38街区にあった紅灯街「ストーリービル」の入口「ベィズン・ストリート/BASIN St」を過ぎ「F・クォーター」に入って行くその南北に連なる最初の長い通りは「ランパート・ストリート/RAMPERT St」、この通りは「キャナル(運河)・ストリート/CANAL St」の遥か向こう迄続く通りでこの「キャナル・ストリート」から「F・クゥオ一ター」の北側が「NORTH RAMPERT St」でその反対側が文字通り南側「SOUTH RAMPERT St」です。
「キャナル・ストリート/CANAL St」とは当初ここに大きな運河を作る予定でしたが実施に至らずそこはだだっ広い道路となり(一時代では南部一の広い道路として人々に知られていた)この呼び名だけが残りました。
更にこの通りの南側に足を進めて行くと生粋のN.O生まれの白人デキシーグループ「ランパート・ストリート・バレーダース/RAMPERT STREET PARADERS」の初代ドラマー「レイ・ボーデュック」と日本でもお馴染みそして、あの「ファッツ・二ュー/WHAT'S NEW?」の作曲者でもあるベーシスト、「ボブ・ハガート」によって1937年に書かれたデキシーの名曲「サウス・ランパート・ストリート・パレード/SOUTHRAMPERT STREET PARADE」の明るい雰囲気がそのまま味わえます。
「D(デューク)・エリントン楽団」の「ホファン・ティゾル」と「ハリー・レンク」が1941年に作曲し、1944年「ルイ」の演奏で一躍有名になった「パーディドゥー/PERDIDO」このタイトルは何と"永遠の破滅"と言った意味ですがこんなネーミングをどうどうと使った「パーディドゥ・ストリート/PERDIDO St」はキャナルの南側の奥に位置し、ここは「L・アームストロング」の生まれた場所として知られていますが当時のこの一帯はその名の通り数多くの黒人達とニューカマーの貧民窟が多いスラム街だったのですが今は全くその面影は見当たりません。
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古き良き時代を留めるF(フレンチ)・クゥオーター
現在「F・クゥオ一ター」の全ての建物は日本で言う重要文化財扱いとなり建物の内側の内装改築、改造は可能ですが外観は全て保存対象物に指定されているので昔のままで、この通りを歩くと今でも華やかだつた一時代を忍ぶ事が出来ます。
デキシーランドジャズ最高傑作の一つとして知られる「ベイズン(穴ぼことか水溜まりの意)ストリート・ブルース/BASIN St BLUES」は「スペンサー・ウイリアムズ」1928年の作曲。
ジョージ・ルイス Photo by Stanley Kubrick
1800年生まれのN.Oジャズの名クラリネット奏者「ジョージ・ルイス/GEORGE LEWIS」の唯一の作曲と言われる彼が生まれ育った町の通りを描いた美しいメロディー「バーガンディ(フランスの地名・赤ワインの代名詞)ストリート・ブルース/BURGUNDY St BLUES」は南北に走る「ランパート・ストリート」の次に位置する通りで、東西をクロスして行くこの通りは「セント・ピ一夕ース/St' PEATERS St」「オリンズ/ORLEANS St」「セント・アン/St' ANNE St」「デュメイン(フランス王族)/DUMAEIN St」そして「セント・フィリップス/St' PHILLIPS ST」と順を追ってここの通りの情景をあのメロディーで表現しているのです。
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ベニー・グッドマン
『スイング王/THE KING OF SWING』「B(ベニー)・グッドマン/BENNY GOODMAN」の演奏で一躍有名になった「セント・フィリップス通りの散策/St' PHILLIPS St BREAKDOWN」は「ランパート、バーガンディ、バーボン、ローヤル等の通りを東西に縦断している賑やかで楽しい通りで、この曲を口ずさみながらここを散歩すると気分は最高!
『ジャズ』発祥の地「ニューオーリンズ」の名のついた『デキシーランドジャズ』スタンダード曲も数多い。| 1946 | LOUIS ALTER EDDIE DE LANGE |
| 1922 | J.TURNER LAYTON HENRY CREAMER |