Volume 3
フォスター物語
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(その1) 序章
ジャズの源流

拡大スティーブン・コリンズ・フォスター
出典:ウィキペディア
前回迄はアメリカの世界的財産「ジャズ」の誕生物語とN.Oの町の物語でしたが、今回は19世紀半ばにジャズ誕生そのものに大きな影響を与えた偉大な数多くの美しい作品を世に残した作曲家のお話です。
この時代の日本は1603年(2003年は開府4世紀)から1867年迄の264年間鎖国をしていた江戸時代の末期で日本の男性は「ちょんまげ」を結い町中を闊歩していた時代、アメリカでの音楽の主流はと言うとヨーロッパからの「持ち込み音楽」が中心で移住者を中心にこの音楽を愛する人々は多かったのですが広大なアメリカ各地に移ってからは一般大衆にはこの少し堅苦しい音楽は少々縁遠くなりつつあった、そんな時代に誰もが気軽に口ずさめる単純で心暖まる美しい曲を数多く作曲、その多くは今でも世界中で多くの人によって愛唱されています。
今回はこの時代特有のアメリカ社会背景を通し、数多くの素晴らしい曲を世に生み出した皆様良くご存じの作曲家、『スティーブン・コリンズ・フォスター』のお話です。
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タイムスリップ開始
この「フォスター」のお話に入る前の序章として「18世紀から19世紀」のアメリカ社会を皆様により良く知って貰いたいので、ここから暫く二百年程前の社会に皆様とご一緒に「タイムスリップ」して見ましょう。
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エイズよりも恐ろしい心の病い!
近年の二千年(20世紀)を振り返ると正に「邪悪なキリスト教と戦争の20世紀だった」と言うのは今や世の常識ですが、たった一塊(ひとかたまり)の人々が崇拝する象徴人物信仰と、その価値観を多くの人々に守らせ服従させる為に行われる布教活動と宣教活動、万一それに従わないと戦争で決着と言う、とんでもない馬鹿げた繰り返しの社会が延々二千年間も続いて来たのは紛れもない事実です。
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タブーの宗教議論
18世紀迄の世界は強烈にこの宗教が母体で培われた「白人文明社会」なる物の考え方が優先し、世界の一般常識となり、どういう訳かそれは延々と21世紀の現在社会迄もどうどうと定着しています。
それにより、若しもこれに逆らう者には直ちに戦争をして勝ち負けを決め「勝てば官軍、負ければ賊軍、何が何でも勝たねばならぬ」と言った実に奇妙で可笑しな物差しが一般常識化しました。
生まれると直ぐに身勝手な親の信じる何一つ正しい事の無い、間違いだらけでアホな宗教や習慣を刷り込まれ育つ環境下では、当然それを否定する手段等あり得ないのに最近そんな人々の中からも公然と語られているのが、「いかなる宗教といえども、宗教はエイズよりも恐ろしい心の病い!」と言う言葉です。
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急激なアメリカの人口増加
キリスト信仰二千年よりも遥か前の人類も有史以来、さもしい人類はいつの時代も社会形成は全てこの「心の病い!」を闇雲に信ずる事が生きる柱で、「文明社会」と称している現在の世の中も決して例外では無く、母体は「この心の病い!」でどの社会も成り立っています。
18世紀前半には一部のヨーロッパで一見完成したかに思われた「キリスト教」も18世紀後半になると、その矛盾や間違いだらけの行き詰まりが随所に噴き出し、破綻破滅の傾向が加速し、世の中特にヨーロッパの国々では不安と混乱の嵐が吹き荒れます。
教科書に載っている、1703年租国イギリスを捨て「メイフラワー号」で新天地を求め「清教徒/PURITAN」がアメリカに渡った話は皆様も良くご存知でしょう。
いつの時代も混乱社会の「皺寄せ」は一般民衆に重くのし掛かり、行き場を無くした多くの市民は自分達の生まれ育った美しい故郷を捨て、新たな夢を抱き新天地を目指す、そこから大量移民時代が始まり、その結果アメリカの人口が急激に膨れ上がります。
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ギャング・オブ・ニューヨーク
19世紀半ば(1848年)アイルランドの大飢謹が原因で人々が相国を捨て、我こそは! と一気にN.Yになだれ込み、そこで大混乱が巻き起こると言う物語の映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」がありました。
この映画監督が「僅か150年前の我々アメリカのN.Yでこんな事件が起こっていたのを我々の誰もが知らなかった」と言っています。
「エイズより恐ろしい心の病い!」の一面は正にここにありで、あらゆる宗教の共通点は皆、只銭儲けだけの「脳ミソ」しか無い軍団故、皆彼等に不都合な目先の事は全て口裏を合わせ身勝手なタブー扱いをし只隠し続けてしまうのです。
この「心の病い!」を改める事は無いので、いつの時代でも世界各地で実に多くの「タブー事件」が後を絶たず、その殆どは日の目を見る事なく世間から忘れ去られていると言った悲惨な事件は実に数多く存在します。
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近代銭儲け社会
18世紀のヨーロッパの不安混乱社会の安易な解決策の一つに取り上げられたのが相手無視の身勝手な「新天地アメリカ」を目指す事で、いっきに大量移民時代が始まります。
その移民者の誰もが祖国の「古臭く間違った旧体質」とはきっぱりと決別し、夢を抱き18世紀後半の1774年にはここを新天地と決めつけ、(実は決してこの地は新天地なんかでは無いのに)身勝手にも自分達の国と主張し「独立宣言」をし、理想の社会建設を目指すのですが、肝心要の「心の病い!⇒宗教」とは決別しなかったので、その後の社会建設は彼等が最も嫌っていた旧体質と何ら変わらない僅か一塊の人に都合の良い象徴人物作り社会の構築に終始します。当初は人並みに「真の生き甲斐を!」と大きな夢を抱き「全ての娯楽は悪!」等と決めつけた"ピューリタニズム"を貫いて他人の土地に無断でやって来た「無知無能の野心家軍団」も、暫くすると自由に好き勝手が出来る広大な土地を得た喜びに酔い狂い、やがて肝心要の人としての心等は何処へやらとなってしまいました。
ともかく全てが欲望むき出しの銭の事だけ!(ONLY MONEY!)です。
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銭に心を売る!
無論この「銭の為なら!」というのは有史以来、古今東西人類の常で何もこの時代に始まった事では無いのですが、この時代の特徴はその後延々と続き、世界中を席捲するキリスト教をベースにした「白人文明社会保持の為」の銭儲け社会建設の始まりで、正にこの時代はこの土台作りが育まれシステム化していくのです。全ての宗教信者は自己中心で凝り固まった目先だけの自己判断で、身勝手に他人の土地を「新天地!」と決めつけ、やりたい放題、力ずくで自己主張、先住民であるアメリカ・インディアンやメキシコ・インディオを僻地に追いやり、皆殺し焼き殺しは日常茶飯事、自然環境、動植物の壊滅的破壊や絶滅行為を繰り返し、無論彼等はそれらを全て(彼等の決めたルールの中で)合法だと主張します。(無論今の時代もそれは何ら相変わらず)「心の病い!⇒宗教!」はいかなる場合も常に戦争と貧困社会を引き起こします。(歴史がそれを証明しています。)
それなのに、それすら気付かずそこから脱却しようとせず目先の不都合な事はタブー扱いとし、あらゆる屁理屈を駆使し、全て己に都合の良い事を並べて合法にします。
そうなると「戦争を早く終結する為に原爆を落とし60万入の人々を殺戮する事も」「兵器実験場としてベトナムやアフガニスタンに『枯葉作戦』や『殺裁兵器』を持ち込み甚大な殺戮、自然破壊する事も全て合法となります。
只「自分達のみの利益追求の為」だけで湾岸戦争をしたり、大規摸なオゾン破壊も合法となります。(常識化してしまう)
仮に少しでも都合の悪い事は全てタブー扱いとし抹殺し、触れる事すら避けてしまう極めて卑怯で愚劣な考えに終始するのが、心の病いである全ての「宗教」の常識です。
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これも表面化して無いタブーな例

拡大メキシコシティーを占領したアメリカ軍(タブーの写真)
出典:ウィキペディア
1776年「独立宣言」をした新生アメリカは19世紀に入るや領土拡大に終始、それ迄の北米大陸の大国「メキシコ」はこの19世紀半ば(1846~48年)急激に力をつけて来たお隣への危機感からインディオ編成軍を擁し仕方無く"強いられた戦争"をしますが、悲しい事に文明国アメリカに一方的に破れ、北米大陸の西海岸に位置する実に広大な大地『カリフォルニア』『アリゾナ』『ネバダ』『ユタ』と言う4つの州全域と『コロラド』と『ニューメキシコ』二つの州の半分以上の国土をアメリカに奪われてしまい、これでアメリカの領土は初めて太平洋と接する事になります。
(皆さんこんな出来事ご存知でしたか?⇒勿論これは宗教をベースにしたアメリカでは絶対的タブー扱いで日本では殆ど知っている入はいないと思われますが、)
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陣取り合戦
拡大アメリカの領土拡大年表
出典:ウィキペディア
それ迄のメキシコ国土が北米大陸でどんなに大きかったか皆さん想像出来ますか?
1853年(いやでござんすペリ一さん)には日本の浦賀沖にペリー提督がやって来て自分達のご都合から幕府に開港を迫り江戸の人々は「たった四杯で夜も眠れず」の時代です。この時代の世界の常識は今の世界の経済戦争と同様、随所で身勝手な新社会構築行為があからさまに大手を振い、新入者(NEW COMERS)が先住民を脅し殺戮を繰り返し土地や金品財産を奪い取り、更に先住民を苛酷な僻地に追いやり、自分達にとって都合の良いしきたりや宗教(キリスト教だけでは無い!)教育、習慣、言語、法律等々を兎もかく合法と称しゴリ押しするのが一般常識化していた時代です。
アメリカは独立達成後間もなく「ルイジアナ地方」や「フロリダ半島」を獲得し領土を拡大した。この頃のアメリカ人の西方⇒西部への移動(西斬)熱は正に凄まじい限り、特にメキシコとは併合問題や国境の問題が生じ、拡大賛成派と反対派が「あ~でも無い!こ~でも無い!」中にはテキサス併合は「神の摂理が既に我々に与えてくれた大陸の全てを占拠し所有するのは明白な運命!」とまるで人としての心の欠片も無い!訳の分からない只自己中心の塊の宗教ベースの「我田引水」理論がどうどうと、まかり通っていた時代でした。
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自然破壊
アメリカ国内では「西部開拓だ!金鉱開拓だ!」と只銭を追っかける為に自然破壊をどうどうと、町作りや道路作りをし考える事は常に己の利益確保に終始し、今では目を覆う程の取り返しのつかない自然破壊事業や動植物の絶滅等も屁理屈を並べた大義名文を作りともかく利益追求に終始し、大陸横断(TRANS一AM)の鉄道建設やダム建設工事等の大公共事業を各地で展関し、そんな中から要領良く銭儲けに成功した仲間が出たりすると皆で挙って(こぞって)「アメリカン・ドリーム」とか言う身勝手な御旗を振りかざし持ち上げ英雄扱い!
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英雄、独裁者を乞う心
「心の病い!」である「宗教」最大級の恐ろしさはどういう訳か常に心に一人の象徴人物を必要とするのが特色で一度(ひとたび)この病いに冒されてしまうと、実は今では世界中先進国或いは文明国と言われる国の殆どの人がそうである様に常にたった一人、或いはたった一握りのあこがれ、崇める神様、仏様、キリスト様、教祖様、将軍様、支配者、英雄、独我者、スーパー・スターを求めるさもしい心の画一的人間に作り上げる社会が構築され、自分では気がつかない内にさもしい人になってしまうのです。この病いで構築されている近代現代社会がそうである様に、多くの人々は兎も角スーパースターが格好良く登場するプロスポーツ等に異常に憧れスポーツ記事が気になる人間、兎も角何でも構わず「収集に没頭し」己の権力独占欲誇示の材料にする心狭いマニアックな(これは長男、長女の性が引き起こす)只自分のさもしい満足を満たす為のコレクター人間になったり、兎も角、常にヒーロ一、ヒロインが登場する映画やアニメ大好き人間になったり、兎も角、他人と僅か少しの違いを強調させる有名ブランド大好き人間になったり・・・と、今日では全てが世界中の常識となってしまった「他人とは違う自分様」作りに没頭するエゴ社会建設に終始しそれに屁理屈をつけて正当化して維持する時代が始まったのです。
その全ての基本が自己満足だけの只「銭儲け」だけで、この病いの人には人としての心は全く一欠片も無く、銭以外「人としての心」なんぞは全く存在しません。
それ故この十八世紀から十九世紀は良く皆様ご存じの「成金」財閥、「成金」富豪、「成金」教祖様が実に数多く世に登場し上流社会と下層社会が形成され貧富の差が確実に拡がり始めたのです。
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無関心
貧富の差を表す「アメリカ社会と奴隷」の話ですが、文明社会構築に必要な労働力確保にアフリカ黒人を連れて来る「奴隷貿易」は18世紀前半1712年に南部の一握りの富豪達によって合法正当化され彼等はそれで大いに財を成しますが、既にこの病いに冒された一般の人々からは只「垂涎の的の人」或いは「無関心」として捉えられていたそんな時代です。
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南部と北部で異なる価値観
拡大第16代アメリカ大統領「エイブラハム・リンカーン」
出典:ウィキペディア
19世紀半ばになると互いの利害問題からアメリカの南と北に住む人々に異なる意見が噴き出します。
南部の資産家は「ニグロは人間では無い、優れた文明社会の我々白人が飯を与え奴隷として扱ってどこが悪い!」と言った白人文明優越社会の保守強硬派、(プロテスタント社会では常識)これに対し「黒人も人間だ!」と言う北部の少数人権擁護改革派、この二つの大きく異なる物の考え方は当然お互い譲れない人聞の性!どちらも哀れでさもしい『俺様の考えだけは絶対に間違ってない!』とエゴ論争に発展、1861年1月26日ルイジアナ州が国家からの離脱宣言をした事がきっかけで新天地に来た狂いに狂った「心の病い!」を持つ仲間同士が一国の南と北に分かれての市民戦争(CIVIL WAR-1861~65)となり、結果は第十六代大統領(共和党)「リンカーン」率いる北軍の勝利となりその後数年間は「奴隷解放」が北軍の指導で実施されたのですが、12年後の1877年には『銭』だけの心しか持たない南部の特権階級の「力」によって黒人奴隷制度を再び容認する『ジム・クロウ制度』が実施されます。
「心の病い!」から一歩も脱却しない『銭』以外には一切の物差しを持たない人間に真の「奴隷解放」とか「人種差別の撤廃」等の問題解決は一世紀半近く経った現在でもそんな生易しい問題で無い事は皆様も良くお解りと思いす。
タイムスリップ解除!
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さてさて、ちょっと過激で乱暴な内容が続きましたが実はこんな激動の時代を生き、美しい数々の名曲を残した「フォスターの姿」を皆様によりリアルに知って頂きたく、その序章として僅か二百年程前のアメリカ社会の一面を皆様と覗き見して参りました。
ここで一つお願い! 本文に登場する「タブー扱い行為」とか「金儲け」「宗教」「戦争」等については決してそれらを非難したり否定しているのではありません。
そんな大それた物では無く、ちょっと18世紀頃のアメリカを覗き見する為でしたので、どうぞ筆者の我儘をお許し下さい。
皆様「どうぞタイムスリップを解いて下さい。」
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(その2) フォスター
STEPHEN COLLINS FOSTER
スティーブン・コリンズ・フォスター
フォスターの生い立ち
世界中で多くの人々に愛唱されているフォスターの代表的な名曲、
(作曲年)
おお! スザンナ
OH! SUSANNA
1846
ネリー・ブライ
NELLY BLY!
1849
草競馬
DE CAMPTOWN RACES
1850
故郷の人々
OLD FOLKS AT HOME
1851
バンジョーひいて
RING,RING DE BANJO!
1851
主入は冷たき土の中
MASSA'S IN DE COLD COLD GROUND
1852
老犬トレイ
OLD DOG TRAY
1853
ケンタッキーの我が家
MY OLD KENTUCKEY HOME,GOOD NIGHT
1853
ハード・タイムズ
HARD TIMES COME AGAIN NO MORE
1854
金髪のジェニー
JEANIE WITH THE LIGHT BROWN HAIR
1854
優しきアニー
GENTLE ANNIE
1856
オールド・ブラック・ジョー
OLD BLACK JOE
1860
夢見る人
BEAUTIFUL DREAMER
1864
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フォスターの誕生日
数多くの心温まる名曲を残した「スティーブン・コリンズ・フォスター」は今から百八十年程前(日本は江戸時代後期)「アメリカ建国五十周年記念日」の1826年の7月4日ニューヨークから数百キロ内陸部に位置するペンシルバニア州ピッツバークで生まれ、僅か三十七歳の若さでこの世を去りました。(皆様、前項に掲げた13のフォスターの代表曲のうち、何曲ご存知でしたか?)
当時の建国記念日はアメリカ人にとって今よりずっとずっと「楽しい日」で各家庭で建国のお祝いをし、いろいろな場所で軍隊が国家を演奏したりといった日で、フォスターはこの日が誕生日、そして後にルイジアナ州N.Oから登場する「ジャズ史上」最大のトランペッター「ジャズの王様」ルイ・アームストロングも実は同じこの日が誕生日です。(近年、ルイの誕生日が覆される話も聞きますが。)
このアメリカが世界に誇れる偉大な二人の誕生日が偶然とはいえ同じ7月4日の「建国記念日」というのも何かを感じさせます。
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波乱の生涯
フォスター父方のご先祖は三世代前にアイルランドから新天地アメリカに移住。
バージニア州から16歳の時にピッツバークにやってきた商人の父親「W・バークレー・フォスター」と母親「E・クレイランド・トムリンスン」の一家の実に9番目の末っ子として生まれます。
父親はバイオリンの名手そして母親クレイランドはメリーランド出身の音楽や詩の教養を持ち合わせていた人でフォスターのあの美しい詩や音楽の優れた才能はこの母親の影響を強く受けた為といわれています。
既に幼少の頃からフルートやギターを独学で覚え周りの人々を驚かせる程音楽に対しての才能があった様です。
この時代の著名な作曲家としてはドイツのワグナーやブラームスが挙げられますが、彼は19世紀前半既に偉大な作曲家の一人として世に知られいたベートーベン、ウエーバー、モーツアルト等の作品を音楽指導の先生が驚く程ピアノで素晴らしい演奏をしていたそうです。
1839年(13歳)
彼の最初の作曲となるフルート四重奏曲、後に彼自身が『ティオガ・ワルツ/TIOGA WALTZ』と名付けた作品を自ら第一パートを吹いて発表。
1842年(16歳)
作風はまだこの時代のヨーロッパ音楽思想に強く影響されていますがあの有名な晩年(1864年)に出版される『夢見る人/BEAUTIFUL DREAMER』の源となる『窓ひらき給え/OPEN THY LATTICE、 LOVE』を作曲、これが彼の出版処女作となりました。
1843~46年(17~20歳)
ピッツバーグの綿花倉庫の検査員の仕事をしていた折、黒人労働者が歌う音楽を多く聞く機会に恵まれ、これが彼のその後の作品に黒人音楽の影響をはっきりと表して来るようになった源ではと思われています。
1845年(19歳)
彼は仲間と音楽を楽しむ青年クラブを作りそこで演奏や音楽指導等をして『伯父のネッド/UNCLE NED』『ルイジアナ美人/LOU’ISIANA BELLE』他数曲を作曲。このクラブはその後十数年程活動が続き彼の作品を世に広める一つの役割を果たしました。
1846年(20歳)
兄のいるシンシナティーに行き簿記の仕事を手伝いながらピッツバーグの家の隣に住んでいた三歳年下の陸軍大尉の娘スーザン・ベントランドに捧げた『おお!スザンナ』他を作曲、余談ですが彼の数字感覚は極めて弱く簿記の仕事は彼には不向きだったようで、この『おお!スザンナ』の楽譜出版でフォスターの手に入った印税はたったの15ドル(¥5千円程)だったそうです。
時代は南北戦争(1860~65年)の15年程前、アメリカ国内は西部開拓ブームで同時に未だ誰もが見た事無い黒人に対する関心が高まっていたそんな時代に『おお!スザンナ』は金鉱に群がる西部開拓者の心を捕らえ大ヒット、しかし黒人の口笛からヒントを得て作曲した『草競馬/DE CAMPTOWN RACES』は未だどこの出版社も手を出しませんでしたがこの頃からフォスターの名は少しづつ世に出ます。
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南北戦争とジャズ誕生に大きな功績を残したフォスター
南北戦争勃発の背景の一つにそれ迄黒人奴隷の存在を一切知らなかった北部の一部の人々から「奴隷行為」は人道上良くない、人種差別だと言った非難の声が出始め、やがてリンカーン大統領率いる北軍の登場となりますが、北部の多くの人々は実際にアフリカから強制的に船底に詰め込まれ生まれ故郷から遥か遠くの見知らぬアメリカ南部のN.Oの港に(拉致されて)連れて来られ「奴隷市場」でムチで打たれてセリ売りされ、何一つ自分達の主張等を社会に訴えられなかった黒人達の存在を知る手立てが無かったのです。
そんな時代に『おお!スザンナ』『オールド・ブラック・ジョー』『主人は冷たき土の下』「故郷の人々』等の美しいフォスター作品は多くの人々に大きな感銘を与えると同時に苛酷な条件下の黒人の存在を世の人々に知らせる役目を果たし「奴隷解放」の動きを生み出す社会形成に実に大きな影響を与え、それは正しく「南北戦争」勃発の大きな要因ともなりました。
「南北戦争」は1865年4月にワシントンのフォード劇場で観劇中のリンカーン大統領が暗殺された事でその幕を閉じますが、彼はその前の年の1864年一月「奴隷解放」を掲げた北軍の勝利を知る事無くN.Yで三十七歳の若さでこの世を去りました。
ジャズの歴史の方から覗くと、この「奴隷解放」によって綿花畑や砂糖きび畑や様々な作業現場や港湾荷役運搬労働他あらゆる苛酷な重労働を強いられて来た黒人達が「プランテーション」や職場を捨て町に溢れ出て来ます。
この元来陽気で明るい黒人達の誰もが気軽に口ずさめたフォスターの心暖まるメロディーは彼等に実に大きな音楽的影響をもたらし、後に世に登場する『ブルース/BLUES』『ラグタイム/RAG-TIME』『ブキ・ウギ/BOOGIE OOGIE』『ジャズ/JAZZ』等と呼ばれる様々な新しい音楽、そして『デキシーランドジャズ/DIXIELAND JAZZ』誕生の大きな礎(いしずえ)となったのです。
いつの時代でも真の歴史を動かす人とは決して作られた神様や英雄、独裁者、教祖様でも無く、権力者でも大金持ちでも無く、ましてや身勝手な親や親戚の我儘ご都合で二代三代と洗脳し作られその気になっているスーパー・ヒーロー達では(決して、)無いのです。フォスターメロディーが聞く人の心に響くのはそれがどんなに間違いだらけの世の中であっても「素直で無心な」心をしっかりと貫いている事で、それが明らかに後の「南北戦争」を引き起こす一つの大きな布石になった事等当のフォスター自身知る由も無く、更に当時の世間一般常識となっていた「クラシック音楽」とは明らかに一線を引く新しい音楽を生み、それが後の黒人によって『ジャズ』となって世に出る音楽の礎を作った事等フォスター自身は知る由も無く、しかし我々はこの大きな二つの功績を決して見逃す事は出来ません。
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地方巡業
さて今から150~60年前の19世紀半ばはラジオもテレビも無いメガホンだけの時代に人々はどうやってこの心暖まるフォスターメロディーを知り得たのでしょうか?
既に前の方で紹介しましたが19世紀初頭から実に百年以上の長い間、日本では余り馴染みが無い当時のアメリカの代表的大衆娯楽「ミンストレルショー」や「ヴォードビル」と言った軽演劇の一座が全米各地隅々までを地方巡業興行するのが大流行、娯楽の少なかったこの時代の花形でした。
ここから人々はフォスターのメロディーと接していたのでした。
この「ミンストレルやヴォードビル」はアメリカ人そのものである「明るさ」「陽気さ」「笑い」「派出さ」「センスあるジョーク」等の社会風習造りの大きな源となりました。
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E・P・クリスティーとフォスター
19世紀初頭、一般社会に黒人の関心が高まって来るといち早く黒人の風俗習慣や生活しぐさを白人の観点で取り上げ、それを面白可笑しく滑稽に演じると安易に受ける事を見出した心無い只銭儲け宗教に完壁に冒された白人達が競って顔や体を真っ黒に塗りお笑いを演じる「ミンストレルショー」が大流行します。
従来のお笑い劇は「ヴォードビル」(二百数年の歴史を持つ日本の寄席と共通する所もある)と称されていましたがこの白人が黒人に扮しお笑いを取る「ミンストレルショー」は当時のアメリカの大衆娯楽の頂点に君臨していました。
このミンストレルショー全盛時の代表的一座『クリスティー・ミンストレルズ/CHRISTY'S MINSTRELS』の座長E・P・クリスティーが巷に除々に流行し始めていたフォスターの『おお!スザンナ』を一座の公演に取り入れ使い大ヒットしたことから、クリスティーは若い(19~20歳)フォスターに自分の一座のミンストレルの為の作曲依頼をする様になります。
ここからフォスターは彼の代表作となる『おお!スザンナ』『故郷の人々』『草競馬』『リング・リング・バンジョー』『ネリー・ブライ』等の明るく陽気なミンストレルにマッチした楽しい曲を数多く作曲します。
クリスティー自身はフォスターの作品が特にお客に喜ばれる事を解っていたのでフォスターの曲は全て自分の持ち歌とし、その彼の一座『クリスティー・ミンストレルズ』が全米各地隅々まで出向いて興行し大好評を博した為、作曲家フォスターの名も世に出て多くの人々に知られる様になり作曲家としての生活基盤が出来た筈なのですが、華やかな一座の活動とは全く別にフォスターはと言うと、相変わらず「美味しい所は全てE・Pクリスティー」と言う風に彼はいつも貧乏と仲良しだった様です。

拡大「ミンストレルショー」Author:BPL
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左の「ミンストレルショー」のポスターはミンストレルの歴史が既に50年程経て、本文Volume 1(その1)に掲載の初期のポスター程黒人奴隷をコケにしていないが、それでも母体は黒人奴隷を食い物にしている。
フォスターはこの「クリスティー・ミンストレル」一座の曲を一手に担当していて「クリスティ一」はそのお陰で大成功を納める。

拡大フォスターの大ヒット曲『故郷の人々』の当時の譜面
出典:ウィキペディア
ラジオもレコードも無いこの時代人々は譜面によって新しい音楽を手に入れていた。
作曲家には印税収入が入る仕組みは出来ていたがこの譜面にフォスターの名は無く座長の「E・Pクリスティ」、更に当時の人々に関心のあった珍らしい黒人音楽を意味する「エチオピアのメロディー」と紹介されている。
この譜面は一枚25セント、この時点で50回目の改訂版でいかに大ヒットしてたかが判る。
同時にこの曲の印税収入がいかに莫大だったか予測されますが、フォスターが実際に手にした金額は極く僅かで美味しい所は「E・P・クリスティー」さんと『N.Yの出販社」が喜んで頂いていた様です。
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フォスターバッシング
時代に的確にマッチし、多くの人々に大きな喜びと生きがいを与えるメロディーを数多く作曲したフォスターですが生前にその彼の真価が認められる事はありませんでした。前述の様に彼の名が知られ始めるとその時代特有の強烈なバッシング(非難)がフォスターを襲い結局彼はそれから逃れられず生涯貧困と孤独の人生を過ごすのです。
南部の奴隷制度を巧みに操り特権階級を縦持している富豪達からは「彼は黒人の肩を持つ危険な奴!」と言ったレッテルを貼られ心良く思われず、ご主人様のご意見がそうだからとプランテーション(農場)の黒人達も同様にフォスターを避ける様になります。
更に「我々の今の生活に奴隷開放とかなんとかでご主人様の所から右も左も判らない異郷の地に放り出されたら俺達は皆生きて行けない!」「そんな事も判らず我々の存在を白人社会に曝す(さらす)なんて!」とフォスターを非難する黒人も多かったと言われてます。
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まやかし軍団
TVもラジオも冷蔵庫すら無い19世紀中頃ですが新聞だけは既に存在していました。
しかし今日の世界中のTVや映画社会で見られるマスメディアと称する「銭儲け軍団」の本当の姿は、皆自己中心の自己美化の塊軍団そのもので、一途に己の番組の視聴率アップや観客動量数即ち興行収益に終始し、真実の報道や内容より只々、自己利益確保を確実にする手段追求の虚飾世界作りに終始しているのと全く同様、当時もそして今でさえも「新聞」とは只自社の発行部数アップのみが大前提で、真実報道等と言う使命感は仮にあったとしても極めて軽く或いは全く無く、只々新聞社或いは担当者のご都合優先で、ともかく読者が好みそうなスキャンダラスな話題作りをし発行部数を上げて只利益を伸ばす事のみに専念する。
(これは今のマスコミ界でも何ら全く変わらず・・・)
決して要領の良いとは言えないフォスターはこの時代のマスコミに完壁に利用されて哀れにもスキャンダラスな話題の餌食に終始してしまいます。
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マスコミに歪められたフォスター像
それ故一般社会の人々に写っていた"フォスターの印象"はと言うと、彼が幼少の折り彼の家の黒人女中「オリヴィア・バイズ」がフォスターを特に可愛がり、時々密かに「黒人教会」に連れて行ったと言う当時の絶対的タブー行為(白人が黒人教会に入る事)の人間、と誠しやかな作り話が増幅しささやかれ(この話はその後フォスターの兄弟の一人モリスンの誤った憶測が原因で間違い記事だったと訂正記事も出たのですが、)
フォスターは幼少時に黒人召使いに全てを感化されてしまった変わり者で、とか!
更にいつの社会でも実に数多い、要領だけは良く只人より少し大声を出して人々を錯覚させてしまう「利己主義とエゴの固まり」の売れっ子ジャーナリストから、実際フォスターとは一度の面識すらないのに適当に「黒人の申し子」等と烙印を押されてしまったり、結局彼は銭儲け軍団社会の大きな歯車からはみ出し生涯この歯車に入れませんでした。
コンピュータ社会の現代でも「真実」を相手に伝える事は難しいのに、人から人への口伝えが主流の時代、更に「まやかし新聞社会」に「真実」を正しく伝える事を期待する方が無理でしょうが、この悲しい現実のエピソードは正にこの時代の世相を良く表しています。
しかしそんなフォスター自身の苦難と貧困生活とは全く関係無く彼の作曲した数多くの美しい曲は日々、全米の多くの人々に喜ばれ席捲して行くのです。
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波乱の生涯
1848年(22歳)
彼はシンシナティーから故郷ピッツバーグに戻り作曲活動に専念『ネリー・ブライ/NELLY BLY!』『やさしきネリー/NELLY WAS A LADY』他数曲を作曲
1850年(24歳)
この年の7月22日「J(ジェーン⇒ジェニー)・デニー・マクダウェル」と言う故郷の医者の娘に恋をし、多くの反対を押し切り結婚、一人娘のマリアンを授かります。このジェーンは『金髪のジェニー』のモデル。
そしてこのジェーンの家で十年以上ご主人を馬車に乗せて送り迎えをしていた黒人ジョーを題材にしたのが『オールド・ブラック・ジョー』です。
ここから彼は新生活を期す為にN.Yの出版会社に就職し大都会N.Yに出ますが都会の空気が合わなかった様で一年程で故郷に戻り両親が亡くなる1855年迄ピッツバーグで多くの時を過ごすのですが天才的芸術家によくある型のはまった生活の出来ないタイプで経済的に家庭内はいつも黄色信号。
1851~53年(25~27歳)
彼はジェーンとN.Oや南部を旅行し特に南部黒人に好意をよせていたフォスターは彼等の生活をつぶさに観察しそこから後の作品に南部の薫りが強く感じられる様になります。
彼の生涯を通しての代表的な作品『故郷の人々』『主人は冷たき土の中』等を旅行後に作曲。
1853~60年(27~34歳)
ピッツバーグの故郷の地で『老犬トレイ』
南部旅行の際に立ち寄ったケンタッキー、バーズタウンの親戚にあたる上院議員ジョン・ローワンの家を訪ねた時に想い浮かんだ『ケンタッキーの我が家』他を作曲。
'54年(28歳)には『金髪のジェニー』や『ハード・タイムス』他彼は毎年沢山の曲を書いていましたが'56年(30歳)の一年はどういう訳か『優しきアニー』一曲しか書いていません。
1860年(34歳)
『オールド・ブラック・ジョー』他そして彼の生涯最後の出版曲は'64年(37歳)の時のあの『夢見る人』です。
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若き天才の死
彼は、乗り物に乗っている時に突然ひらめいてメロディーを考え出したり、真夜中突然起きてローソクの灯をともして紙に走り書き、という風に極めて自由に作曲をしていた様です。
曲が完成すると直ぐに出版社に向かい生活費を稼いでいたと言われますがいつも大した実入りにはならず時に成功したとしても彼が手にした印税は極めて僅か!
いつでも「美味しい所は皆出版社!」と言う様に彼の収入は終始不安定だった様です。
そんな中、何とか安定した生活を求め1860年(34歳)彼はお気に入りの故郷ピッツバーグを離れ再び大都市N.Yへ行くのですが、この時代の世の中は大量失業時代で彼を受け入れる所は全く無く貧窮から脱出出来ず宿を転々と言った惨めな生活に陥り、死因には二説ありますが一般的に伝えられているのが、お決まりのアルコールに侵され結核性の病も患い1864年1月10日「アメリカン・ホテル」と言う小さな宿の洗面所で突然倒れ首と顔に大けがをし意識不明の状態で大量出血をし「ベルヴェー慈善病院」に運ばれた時には既に助かる見込みは無かったといわれています。
三日後の1864年1月13日飲酒が原因の外傷による出血多量が原因で三十七歳の者さで惨めな死を迎えました。
彼の上着のポケットに残された所持金は僅か57セント(200円位)だったそうで、その上着を処分した際の価格がわずか38セントだったそうです。
彼の生前を知る人は、ほっそりタイプで背はそんなに高からず眼は黒目で大きく知性を感じさせ、ともかく内気で優しい人だったと言います。
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優しきアニー
フォスターの優しさを伝えるエピソードにピッツバーグの彼の家の直ぐ近くに住む貧しい農家の少女アニーが馬車にはねられて死んでしまった時、悲しみで泣いている彼女の両親の側に一晩中付き添って慰めたと言う話があります。
後に彼はこの哀れな少女アニ一を偲んで『優しきア二一/GENTLE ANNIE』と言う実に美しいメロディーを世に残しています。
筆者が誰かにフォスターの数ある作品の中で最も好きな曲は何?と聞かれたら、間違い無くこの『優しきアニー』と答えます。
優しきアニーの譜面
フォスターの心優しい旋律はフォスターその人の心!と言うエピソードは沢山あり、彼の家の近くに住んでいた少女が馬車にはねられ死んで悲しさで泣いていた両親に一晩中付添い、後にこの哀れな少女アニーを偲んでこの曲が書かれたと言われています。
この実に美しい曲が余り人々に知られていないのはこのメロディーと良く似ているマティウス・マロック作曲のアイルランド民謡、「春の日の花と輝く/BELEIVE ME IF ALL THOSE ENDEARING YOUNG CHARMES」が、名門ハーバード大学の歌として当時既に有名だった事、彼がアイルランド系だった事等から心無い人々から「盗作」のレッテルを貼られてしまいどの出版社も手を出せず"日の目"を見る事が無かったからなのです。決して「盗作」では無いのですが!
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哀れなフォスター?
今回のフォスターの生涯をかいま見て、「いやはや何とも、こんなに素晴らしい世界中の多くの人に喜ばれる音楽を世に残しながらその日暮らしの一生とはアホな生き方やなぁー、実に勿体ない!」
「私だったら・・」と感じた方、或いは「私なら・・・」
皆様色々ご意見あろうかと思われますが、背はそんなに高くなく大きな眼で知性を感じさせ、内気で優しく時の流れや銭勘定に大した執着心も無くその時代の周りの人々とは多少異なる「黒人奴隷」に対しても「友達」と感じそのまま美しい曲にしたフォスター、若しかして貴方の周りにこんな人はいませんか?
いや!若しかしてそれは貴方本人かも?
彼の体験した「銭儲けだけの宗教社会の歯車から外れた」質素な生活の中から生まれた素朴で美しいメロディーは同じ様な境遇の多くの黒人や世界中の多くの人々に強い喜びや感銘を与えました。
中でも奴隷解放を引き起こす程の巨大なパワーと、彼等も気軽に口ずさめたフォスターメロディーに多くの喜びを感じた黒人達の感謝の気持ちから後に生み出された音楽が本来の「ジャズ」であり『デキシーランドジャズ』なのです。
そこには現代社会では極めて当然となっている醜い只々「銭儲け思想」は本当は一切存在しません、・・・・・
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ルイ・アームストロングの一言
しかし本来この音楽の持つ最も大切な純粋さは当然の如く日の目を見る事無く、ただ要領の良い文明社会の人々によって銭の元として「ジャズ」の根源すら奪われ、真の「心や魂を癒す」音楽よりも銭儲けの音楽に変わって成長して行ったのも紛れもない現実の姿です。
『ジャズの王様』ルイ・アームストロングが或る日しみじみと語った一言。
『皆が私を必要とするのは私がトランペットを吹いている時だけだ。⇒(銭になる)』この一言の「真」の凄さは宗教がもたらす銭一辺倒社会の人々に正しく理解出来る人は誰一人としていなかったし今でもいないでしょうが、ルイの白人銭儲け社会に対してのタブーである強烈な反骨精神を表している一言で、ここでも間違い無く「ルイ・アームストロング」は『ジャズの王様』です。
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反骨精神
それでも不思議な事に、いつの時代でもジャズの原点『デキシーランド・ジャズ』の虜になっている人々は世界中に沢山います。
これは明らかにこの「ジャズ」が音楽芸術の本心である"聞違いだらけの社会"に対し情熱を持った反骨精神をしっかりと貫き、聞く人に「心や魂を癒す」音楽である所以(ゆえん)です。
この大事な要素を失って只形や格好だけ、或いはテクニックだけで心に響いて来ない受け狙いのジャズは真の「デキシーランドジャズ」とは言えないと言う事です。
「心に癒しを与える音楽」とはどうやらフォスター自身の生き様その物の様でその時代の社会の環境風習等に左右されず一人の「人間」として生き抜いて行く、どちらかと言うとアンチ社会的な反骨精神にその「美学」が存在します。
「デキシーランドジャズ」が聞く人の心をひきつける最大の要素は意外とこの「精神」を貫いているかどうかであって、ただ現状社会に迎合し格好と要領だけは良く恵まれた環境で育ち、譜面や楽器を正確にこなしお客を驚かせたり喜ばせ自分に振り向かせる為のアクロバチック的技量を競ったり、受けの良い工夫や仕掛けに凝り固まり自己中心の自己美化、自己評価、自己判断で自分は人と違う!と言ったさもしい事だけを強調する事に終始するそんな"音楽"では無いと言う事です。
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言い訳と弁解の達人
こんな身勝手な事を言うと、必ず「それはそうかも知れないが世の中のしきたりを無視したら一人では生きてけないし、それこそフォスターみたいに貧乏になっておまんま食えなくなつちゃう」とか、
「現実に生まれてから直ぐにジャズは銭儲けのネタに使われて長い歴史を持っているのだから何か偉そうに、「心の音楽」だ「癒しの音楽」とか「反骨精神」とか言う訳の判からない事言わず素直にその「銭儲け音楽」を楽しむ方がお利口だし正解だよ!」とか、
「私個人はそうしたいんだけど残念ながら家族や周りは代々何々の伝統があって」とか、「そんなのは今の時代誰も相手にしてくれない、やりたい奴がやればいいのさ!」・・等々結局強烈に鍵の懸かってしまった近年の白人文明の「銭儲け宗教社会」から一歩も抜け出す事が出来ずひたすら現状社会にしがみつき、多少の自覚があるのかどうかは分からないがそんな哀れで惨めな己を認める事だけは"絶対に厭!"なので(本人は気がつかないが)反動的に己の行為を日々正当化し言い訳と弁解だけのさもしい自己主張努力をしている現代社会の殆どの人々、
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自分だけは!
その結果周りを見渡せばともかく自分だけは他人とは少し違う、
「より良い家に住み」「より良い家庭を持ち」「より美味い物を食し」
「より良いと言われる学校に行き」「より良いブランド品」を身につけ
「より確実な情報を得る努力をし」「より良い会社に行き」
「より良い伴侶を血まなこになって見つけ」
「より良い車に乗り」等々の世の中一般常識の全てがべターイズム・・・・
肝心な『一人の人間』としての己の生き方を完壁に見失い、只世間のしきたりや目先の流行に左右され身近な周りの他人との比較、比較で成り立つ「ベターイズム」社会。
世の中全てがこの画一的な「エセ文化」で成り立ち、世の男性はと言うとどういう訳かお決まりのネクタイをし、百五十年前迄はチョンマゲを結っていた日本の男性でさえも髪型を七:三にし、不釣り合いなネクタイをし、ブランド品を身につけ判こで押した如くの共通言語は男も女も「もう俺も(私も)年だし!」
少々糖尿気味、高脂血症気味の体質だけど英会話をそれなりにこなし要領と人当たりはそんなに悪く無く、インターネットと携帯電話i-Podを気軽に使いこなし確実な情報源を確保し、それ故言い訳、批評、弁解をさせたら何事も上手く評論家顔負け!・・・
本文に出てくる心の病い文明にどっぶりはまってしまった人々や「エセ音楽」で氾濫し切った現代の「エセ社会」に、多少の「反骨精神」を持った一服の癒しの『デキシーランド・ジャズ』を楽しむのも時には悪くないのではと思い、こんな話を長々と綴りました。

筆者の我儘な戯言(たわごと)ばかり、読者の皆様に深くお詫び致します。

3「Vol3.フォスター物語」」はここまで
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