『著者・穂高健一氏の掲載許諾済み』
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浅草ストーリーを創る人びと=春川ひろし
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【PJニュース 2010年1月24日】
いま東京・浅草が注目されている。大正、昭和、平成の3つの時代を通して、浅草ほど人気度の乱高下の激しい町はまずないだろう。ここ半世紀は凋落(ちょうらく)傾向にあった。それが今、再び浅草が輝きを増しはじめている。

浅草はかつて日本人の憧れの街として、大正、昭和初期、終戦後まで、大いに栄えてきた。浅草文化が一世を風靡(ふうび)し、国内から上京した人はまず浅草に足を運んでいたものだ。

昭和30年代後半から、日本が高度成長期に入った。東京の近代化が急速に進んでいく。高層ビルができるたびに、新宿、池袋、恵比寿、隣接する青山、渋谷などと、それらの街が人気度を競ってきた。反比例するかのように、国際観光スポットの代表格だった浅草が斜陽化していった。演劇劇場の閉鎖とか、仲見世は夜の店じまいが早いとか、ホームレスの多い街だとか、暗いイメージがつきはじめた。「汚い、怖い、暗い」という酷評までも聞かれた。街は色あせてきて、立ち遅れた浅草の人気度は下がる一方だった。

10年ほど前から、浅草が変わってきた。危機感を持った浅草人による、町おこしが盛んになった。浅草案内地図板作り、二階建てバスの運行、浅草サンバカーニバルの開催、浅草寺や五重塔や雷門のライトアップなどがはじまった。
つくばエクスプレスができると、アギバ(秋葉原)人気から、隣接する浅草に人の流れが出てきた。街は次第に活気を取り戻してきた。国際通り、雷門通りの歩道はタイル張り舗装で改善され、街全体が明るくなってきた。

東京スカイツリー(墨田区)が決定し、建設がはじまると、見学人が増え、浅草は一段と脚光を浴びてきた。
PJとしては、浅草人に注目してみたい。温故知新から、古き街に携わった人を掘り起こし、新しき街づくりに取り組む、浅草庶民派の人びとにスポットを向けてみる。
それが浅草の魅力の再発見につながるだろう。

今回の登場はジャズ・ドラマーの春川ひろしさんだ。

「大正、昭和時代には演劇、喜劇、歌舞伎、寄席、ストリップなど多彩な浅草文化がありました。昭和半ばから次つぎに消え、なだれ現象が起きてしまいました。やがて一世を風靡した、常盤座、大勝館、木馬亭、花やしきなどは元気をなくし、いまでは消えてしまったものもある。浅草の町おこしは観光だけでなく、浅草文化伝統の再起なんです」。春川さんがそう語ってくれた。

「浅草おかみさん会」の冨永照子会長から、数年前に、「春ちゃん、ニューオリンズに行かない」と声がかかった。英語が堪能なジャズ・ドラマーの春川さんは喜んで同行したという。

ルイ・アームストロング空港に到着すると、突然、「聖者の行進」の生演奏がはじまった。前年に浅草から日本中を公演した、『ニューオリンズ・オールスターズ』のメンバーだった。歓迎演奏は到着ロビーから駐車場までの長い距離だった。春川さんはつよい感激を覚えた、と話す。

「ニューオリンズといえばジャズ。浅草にも通じる音楽でしょ。江戸人の粋(いき)な浅草文化として取り入れてよ」冨永会長のことばから、ジャズが浅草の町おこしの一つに取上げられたのだ。浅草・すしや通りでは秋には、浅草・振袖さん+ジャズバンドのパレードが行われている。
中につづく

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浅草ストーリーを創る人びと=春川ひろし
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【PJニュース 2010年1月24日】
昭和の高度成長期を境に、浅草の街は斜陽化した。TVの全盛期から、浅草に足を運ばなくても、ブラウン管を観て、笑い、楽しむ時代になった。やがて、浅草文化も方向性を失ってしまった。

「ロッパ、エノケンが活躍した常盤座も、デン助が活躍した大勝館も消えてしまいました。浅草がシャッター・ストリートになりかけていた。新しく浅草文化を構築し、街を活性化させる。それには新しい発想が必要なんです」
ジャズ・ドラマーの春川ひろしさんは、浅草の再構築に、陰の力で携わっている。

浅草の町おこしの発想や着想は、他とは違う。浅草おかみさん会(冨永照子会長)の提唱により、二階建てバスが浅草に導入された。米国・ニューオリンズが発祥の地である、デキシーランド・ジャズが浅草の音楽に加わったのだ。そこには浅草は国際観光都市の自負があるからだろう。

「浅草はここ数年、TVで取り上げられる人気度では、銀座、渋谷、原宿を抜いてNO1にのし上がってきました」。春川さんは確かな手ごたえを得ている表情で語った。

春川さんは東京生まれ。大学時代はキャバレーやダンスホールで、ジャズバンドでドラムをたたくプロ活動をしていた。その後、ドイツのレンズのトップメーカーに7年、アメリカのメガネ・メーカーに13年にわたって勤務した。メガネ・フレームの設計分野では独自の構造力学が脚光を浴びた。
メガネは世界各国で必要とされるものだ。かれは各国でメガネ・フレームの工場作りに携わった。28カ国、地球6周半に及ぶ。この間はまったく音楽に無縁だったという。

「世界を飛び回る、お金のためにネクタイ姿になる生活はもうやめた。日本で、思うままに、自由人として生きる」。そう決断した春川さんは41歳で、アメリカで辞表を出して日本に帰ってきた。そして、浅草に住居を構えた。

49歳で、浅草・HUBを中心とした、ジャズのプロ活動に入った。『デキシーランドジャズ物語』の冊子を作り、現在まで8000部が配布されている。10年前からは町おこしにも携わる。
下につづく

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浅草ストーリーを創る人びと=春川ひろし
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【PJニュース 2010年1月24日】
今の時代はジャズそのものが人びとの心から疎遠となっていく。ジャズ・ドラマーの春川ひろしさんは、その現実に対して4年前、ジャズ演奏のなかに童謡を一曲入れて演奏してみた。観客は食い入るように聴いて、喜びを表現していたという。

「これだ、と思いました。日本人は童謡を歌わないで、心の中にしまっているだけだ。それを引き出してあげる」。ニューオリンズから生まれたジャズ演奏に、童謡を次々に取り入れはじめたのだ。

「聴き手の心にひびくんですよ。日本人の心の中には、童謡が流れているんです」。春川さんは温故知新で、童謡を浅草文化として育てたいと考えた。日本人の心の故郷「童謡」をデキシーランド・ジャズで演奏する。数年前には『春川ひろしと童謡デキシーランダース』を立ち上げた。その活動を積極的に展開している。

HUBで童謡を演奏すれば、毎回100人の席が満席になる。日本人の暖かさが浅草でもらえる、と好評だ。春川さんは浅草文化の一つになる、という手ごたえをつかみ、春川ひろし著『近代日本の音楽の原点は、童謡にあり』の冊子を発行し、配布している。

ユニークなのは若い世代の国際感覚が必要という認識から、ピアニストにはロシア人ピアノ・アレクセイさん(日本人女性と結婚)を加えていることだ。外国人観光客には、春川さんの童謡デキシーランド・ジャズをお国に持ち帰ってもらう。28カ国、地球6周半した春川さんは、童謡の国際化までも、視野に入れている。

東京スカイツリー(墨田区)が2011年に完成すれば、1年間のタワーの来場者は500万人を越すと見込まれている。浅草の隅田川とタワーという組み合わせの景観は抜群だろう。滝廉太郎『花』の華やかな情景がふたたびよみがえる。展望台で楽しんだ人たちが浅草に流れてくる。浅草の街はにぎわい、往年の活気を取り戻す。東京のみならず、日本を代表する街に返り咲くだろう。

『春のうららの、隅田川、上り下りの』という歌声が浅草から聴こえてくる。【了】
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